公益社団法人 全国私立保育連盟

保護者

「まとめに代えて(2)触れられなかった大きな問題」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


双方の人格と人格の絡み合いが関係性の中身
 
 これまでの議論を振り返れば、保護者と保育者の接面に生じている様々な思いと思いの絡み合いは、単に保育者が保護者の大変さを優しく受けとめるかどうかの議論ではないことがわかると思います。まさに、双方が「自分を支えてほしい、自分はもう精いっぱい」と思っているのです。

 保護者の側にも、自分のこれまでの人格形成にかかわる自分史と今の対人関係の問題のすべてが背景にあり、それが「保育者への不満」のかたちで立ち現れてきます。同じことは保育者側にもいえて、保育者が保護者に対して十分に配慮できない裏には、難しい子どもを多数抱え、そういう子ども集団を少人数の保育者で保育していかなければならない厳しい現実があり、しかもそこに、保育者自身の人格形成にかかわる自分史と職場の対人関係の難しさが絡んでいるのです。

 そういう背景や事情を抱えた者どうしが、片や保護者として、片や保育者として、今、保育の場で出会っています。その人格と人格の絡み合いとしての関係性の難しさが、保護者にとっても保育者にとっても大きな問題なのです。けれども、今回の連載ではそこまでは深く入り込むことができませんでした。

 以上でこの連載を閉じます。長い間お読みいただき、ありがとうございました。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。
「まとめに代えて(2)触れられなかった大きな問題」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


保護者の保育者への不満、保育者の保護者への不満

 本誌12月号のコラム「保育者・子どもからもらったことば」に、かつてある園の保護者の一人だった方から過去を振り返って次のような短い記事が寄せられました。要約すると、「息子を保育園に通わせ、母親として子育てに悩みながら日々をすごしていた頃、面談時に『お母さんは甘やかしすぎている』と保育者にいわれ、ショックで落ち込んだ。あの当時は子育てに精いっぱいで、その時保育者に『お母さん頑張っているね』と一言、大変さを受けとめてほしかった。そうすれば、あれほど落ち込まなくてすんだと思う」という内容です。

 確かに、子育ての悩みのピークにいた時に、保育者からこのようにいわれたお母さんはショックだったことでしょう。そして、その場面で保育者がもう少しお母さんの気持ちに寄り添うことができれば、そのような言葉をぶつけることはなかったでしょうし、したがって、このお母さんがそれほど落ち込まなくて済んだかもしれません。

 ここには保護者側から見た保育者の対応への不満が示されていますが、これに類する保育者への不満は、表面化こそしないものの、保護者側にかなりあるようです。

 しかし、この例の場合、子育ての悩みを抱えていたお母さんが落ち込んでしまったのは、保育者が掛けた配慮のない言葉によって引き起こされたと単純に考えてしまってよいのでしょうか。例えば、妻の子育ての大変さを夫はわかっていたのか、職場での子育て支援のあり方はどうだったのか、子育ての悩みを話し合ったり、憂うさを晴らしたりする友だち関係を十分に持っていたのか等々。このお母さんの子育ての落ち込みは、様々な次元や要因から成り立っていたはずです。それなのに、それを一人の保育者の対応の問題に還元してしまっていないでしょうか。

 他方、保育者側に目を向けると、保育者側もまた日々の保育やその他の業務の中で、もうこれ以上は無理といわなければならないほど、疲弊し、精いっぱいになっている現状が見えてきます。保育者に子育て支援が求められている昨今ですが、保育者の多くも働く人としては保護者と一緒で、その仕事や子育ての大変さを保育者もまたこのお母さんと同じように誰かにわかってほしいし、認めてほしい、支えてほしいと思っている現実があります。その精いっぱいの思いが、子どもの負の振る舞いを前に、思わず「お母さんは甘やかしすぎている」といわせてしまったということはないでしょうか。保護者との連絡がなかなかとれない、熱があっても連れてくる、子どもの乱暴する様子の裏に家庭の子育ての問題がありそうだ、等々、保育者が保護者に対して不満を抱えていることもまた確かなのです。

 その不満と、先のお母さんの保育者への不満とは無関係ではありません。

>③双方の人格と人格の絡み合いが関係性の中身
「まとめに代えて(2)触れられなかった大きな問題」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


保護者と保育者の関係性の問題

 この連載で取りあげなければと思いながら取りあげられなかったのは、保護者と保育者の関係性の問題です。今、「家庭との連携」の必要についてはいろいろな場面で言及されています。それは保護者の側から見ても、保育者の側から見ても必要だと思われることです。

 実際、0歳児の保育では、家庭での授乳の時間、授乳の量、睡眠時間、体調などの情報を、朝の登園の場面で家庭から園に向けて伝える必要があります。それが0歳児保育を進めるうえで大事な意味を持っているからです。また他の年齢でも、体調や病気など健康面の情報を家庭から園に向けて伝える必要があります。

 それとは逆に、行事や園外保育などの予定を含め、明日持ってくるものや、持って帰ってもらうもの、園だよりやクラスだより、行事などで保育者が撮った子どものスナップ写真など、園から家庭に伝える必要があるものもあります。

 確かに、これらは「情報の交換」という意味で必要なものです。そして最近はやりの保育ドキュメンテーション(園での子どもたちの様子を写したスナップ写真に簡単な説明文を付けて家庭に伝える試み)によって保護者に保育の実態を知ってもらい、それによって家庭との連携を密にするというのも必要なことでしょう。そうしたドキュメンテーションによって、わが子の園での様子がわかり、子育てに前向きになれたという話もよく耳にするようになりました。

 しかし、私が保護者と保育者の関係性の問題として考えたかったのは、そうした情報交換や情報伝達という意味での「家庭との連携」のことではありません。もっと大事なことは、保護者と保育者が子どもを挟んでどのような人間関係を持つかということです。この関係性は保護者の心の動きと保育者の心の動きの絡み合いから成り立つもので、目には見えません。しかし、それが送迎場面でのちょっとした言葉のやりとりに顔を出し、またそれが保護者の側、保育者の側に心の波紋を広げ、「嬉しい」から「腹が立つ」までの大きな揺れ幅を示すことになるのです。

>②保護者の保育者への不満、保育者の保護者への不満
「まとめに代えて(1)」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


子どもはいつも大人に認めてほしいと思っています

 保育の場を訪れていつも思うのは、子どもはみんな保育者に認めてほしい、一対一でかかわってほしいと思っていることです。「せんせい、きて」「せんせい、みて」と子どもが保育者を呼ぶのも、何かしてほしいから来て、できたものを見てほしいから来て、ということももちろんありますが、それ以上に、先生と一対一の関係になりたいという場合がほとんどです。保育者はある子どもに呼ばれても、すぐに行ってあげられないことが多いのですが、少し余裕があって、「なあに」と傍に行くと、子どもははにかんだ笑顔を見せて、嬉しそうにします。大好きな先生が傍に来てくれるだけで嬉しい、そばに来てくれると何か自分が違う子どもになったように思える、そんな様子を示します。

 子どもは自分一人では元気な自分にはなれないかのようで、大事な大人が傍に来て、あなたのことをいつも見ているよ、あなたは大事な子どもだよという思いを向けてくれると、それだけで自分は自分なのだ、自分は大事なのだという思いになることができます。これが自己肯定感ですが、この自己肯定感が立ちあがるのを子ども自身が感じることができるためには、保育者が傍にいて、自分を温かい目で見てくれることが必要なのです。

 同じことは、お母さんにもいえます。お母さんが大好きなのは、いつも傍にいて、自分のことを大事に思ってくれるからです。子どもの目から見て、お母さんがどれほど傍にいてほしい存在なのか、どうしてそれほど求めたい存在なのか、この連載ではそのことをまず伝えたいと思いました。第15回は、お母さんがお迎えに来るのを自転車に乗って園庭を何回も回って「今どこまで来た?」と保育者に尋ねるエピソードを紹介したのも、そこに母を求める子どもの切ない思いが凝縮されていると思われたからです。
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 今、お母さん方の中には、自分の大変さをまわりの人にわかってほしい、自分も自分らしく生きたいと思っておられる方がたくさんいらっしゃいます。自分をまず大事にしたいと思うことは、一回限りしかない自分の人生を考えれば当然のことです。しかし、連載第
15回や第16回のエピソードにも見られるように、子どもはこれほどまでにお母さんという存在を求めています。それにしっかり応えることも、保護者として大事なことではないでしょうか。

 初回に、この連載はお母さんが読んで楽になるものにはならないと予防線を張りました。むしろ、お母さんが子育てに難しさを感じてしまわないかという危惧もありました。しかし、こうすれば子育ては楽になる、こう考えればあなたの生き方は肯定される、こうすれば子どもは親の願ったような子どもになる、等々、巷に溢れるわかりやすい言説は、お母さんを一時的に安心させても、人生の糧にはおそらくならないと私は考えています。

 またお母さん方の中には、今はやりの幼児教育について、もっと何かを語ってほしい、幼児教育の進め方や塾の利用の仕方や小学校との接続について教えてほしいと思う方々もいらっしゃったかもしれません。

 そのことを踏まえて、今回の「まとめに代えて」(1)に加えて、次回を(2)として補足的に述べてみたいと思います。

第19回は3月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

「まとめに代えて(1)」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


この連載17回の内容を振り返る

 これまで、苦手な連載を何とか17回にわたってお伝えしてきました。これまでの17回を振り返って、各回のテーマを並べてみると次のようになります。

 第1回「わが子は今、何を一番求めているでしょうか?」、第2回「子どもの「できる、できない」から、子どもの心に目を向けるために」、第3回「これまでの発達の見方は、子どもを幸せにしましたか?」、第4回「新しい発達の見方から見えてくるも(1)」、第5回「新しい発達の見方から見えてくるもの(2)」、第6回「「育てる」とはどういう営みでしょうか」、第7回「育てることは、なぜ難しいのでしょうか」、第8回「育てる営みを振り返る」、第9回「心の育ちの中でも信頼感と自己肯定感は必須のものです」、第10回「子どもを「叱る」ことは難しい」、第11回「「褒めて育てよ」といわれていますが…」、第12回「自己主張は大事ですが…」、第13回「「お互いさま」の心の育ちも大事です」、第14回「お母さんの自己肯定感は?」、第15 回「子どもは保育園で頑張っています」、第16 回「「あー、お弁当おいしかった!」」、第17回「子どもは子ども、でも子どもは未来の大人」

 第1回目は、子どもは親の愛情を何よりも求めていることを冒頭に伝えたいと思いました。そこが不十分な場合、子どもは保育の場で決まって心が不安定になるからです。第2回目は、力の育ちも心の育ちも大事だけれども、長い目で見れば力よりも心の育ちが大事だということを強調して、世の中の「力、力」という一般的な考え方に疑問を呈ていしてみました。第3回〜第5回までは、従来の発達の見方が「力が先」という見方をもたらしてきたことを踏まえ、心に目を向けた発達の考え方が大事という自説を主張しました。それは、従来の発達の考え方に「育てる」という視点が含まれていないことの指摘でもありました。

 そこで第6回〜第8回までは、「育てる」という営みの難しさについて保護者の皆さんにも多面的に考えていただきたいと思いました。続く第9回〜第13回は、子どもの心の育ちや心を育てることにかかわって、信頼感、自己肯定感、叱る、褒める、自己主張、お互いさま、をテーマに論じました。これは、第2回で示した連載の方向性とも結びつくものです。そして番外編として、第14回にお母さんの自己肯定感を取りあげました。これは、子どもを育てるうえにも大事なものだと思われたからです。

 第15回では、子どもも保育園で頑張っているので、その頑張りをお母さんに認めてほしいと思って書いてみました。そして第16回はお弁当の日を取りあげて、お母さんの愛情の詰まったお弁当という視点から、連載初回の「子どもが今一番求めているのはお母さんの愛情だ」ということをもう一度ダメ押しをしておこうと思いました。第17回は、本当は第5回の後に入れたかったのですが、内容的に重複するところがあるからと没にしていたものです。しかし、今読み返してみて、捨てがたい中身も含まれているので、落穂ひろいの意味で、ここに入れさせていただいたというものです。

>②子どもはいつも大人に認めてほしいと思っています

「子どもは子ども、でも子どもは未来の大人」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


大人という存在も不思議な捻ねじれを抱えています

(1)大人はみな、かつては子どもでした
 いつ大人になったの?と問われれば、誰も答えられません。お母さんもそうでしょう。大人はみな、かつて子どもでした。今は大人だとしても、みな子どもだった頃の記憶を体に浸しみ込ませています。自分が幼かった頃の記憶は薄らいでいるかもしれませんが、わが子を育てながら、自分にもこういう姿があったのに違いないと思うことがしばしばあるに違いありません。子どもの様子を見て、「そうだね、そうしたかったね」と子どもの思いに共感できるのも、お母さんがかつて子どもだったからです。
目の前のわが子が、まるでかつての自分であるかのように思われることはありませんか?自分に叱られている子どもはかつての私、叱っているのは私の母というように、世代が一世代ずれたような錯覚に陥ったことはありませんか?
 ここに、かつて〈育てられる者〉だった者が、今〈育てる者〉になっているという不思議が現れています。今の自分の子育ては、かつて自分の親が自分に振り向けてくれた子育てとどこか相通じるところがあるのは、〈育てる者〉になった大人がかつて育てられた時の経験を体に浸み込ませているからでしょう。

(2)今のお母さんの願いは、かつて自分の親が自分に向けてきた願いでした
 ここに、お母さんが子どもに振り向ける様々な願いが不思議に捻れる理由があります。早く大人になってという思いは、かつて自分の親が自分に向けた思いでもありました。それに対して、「嫌だ、まだ子どもでいたい」と抵抗した子どもだった自分が、今お母さんになって、「早く大人になって」とわが子に求めているのです。なんという不思議でしょうか。
 そして、「いつまでも可愛い子どもでいてね」という思いを子どもに向ける時、それはかつて自分の親が向けてくれた思いだったと気がつくでしょうし、それに対してわが子が「もう、大きいよ」と逆らえば、それもかつての自分の姿だったと思わずにはいられないでしょう。
 こうしてお母さんは、この連載第4回(2016年月号)の図1の内側の楕円に見られるように、子どもと自分の親とのあいだに挟まれて、子どもの側に引き寄せられたり、自分の親の側に引き寄せられたりと、気持ちが揺らいでしまうのです。
 ですから、よかれと思う自分の思いを一方的に子どもに押しつけて、子どもに聞き入れさせようとしている人は、かつて自分もそのように育てられて来てしまったからか、この世代間の入れ替わりの実体験が乏しいか、のいずれかだと考えられます。
 いずれにしても、子育てが難しくなるのは、子どもという存在も、大人という存在も、一筋縄ではいかない矛盾した面を抱えているからなのです。

第18回は2月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。
 
「子どもは子ども、でも子どもは未来の大人」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


子どもという存在の不思議

 お母さんもかつては子どもでした。子どもの時に、大人になるとはどういうことなのかがわかって大人になってきたわけではなかったでしょう。また、いつから大人になったのと問われても答えられないでしょう。子ども、大人、というと、何かまったく違う存在のように聞こえますが、子どもがいつ大人になるのか、そこにはっきりした線引きはできそうにありません。

(1)子どもはやはり子どもです
 子どもはまだ一人では生きていけません。どうしても大人の庇護が必要です。小さいし、すぐ病気になるし、基本的生活習慣が身につくまでに随分と時間がかかります。栄養面と衛生面がしっかりしていて、たっぷりと愛情が与えられ、大きな病気にかからなければ、たいていの子どもは元気に育ちます。しかし、そのどれが欠けても子どもはうまい具合に育ってくれません。
弱い存在の子どもが成長していくうえには、大人の優しい働きかけが欠かせません。また、たいていの子どもは大人の愛情を引き出すことができる資質を持っています。小さく柔らかい体、愛くるしい顔つき、天真爛漫な振る舞いなど、お母さんがつい抱きしめたくなる表情や仕草を示して、まわりにいる大人を喜ばせます。
 しかし、それは子どもの一面です。その好ましい面とは逆に、子どもは泣いたり、わめいたり、ぐずったり、いうことを聞かなかったりと、大人を手こずらせる一面を必ず持っています。子どもは可愛いだけではなく、大人に腹立たしい思いを惹き起こす存在でもあります。子育てが楽しいだけで終わらないのも、子どもにそういう二面性があるからです。
 このように弱い存在であって、なおかつ「可愛い顔」と「憎らしい顔」が同居している存在が子どもです。こうした子どもに対して、「児童憲章」や「子どもの権利条約」は、子どもを大事に守り育て、子どもの持っている可能性を最大限尊重するのが大人の義務であると定めています。子どもは大人の所有物ではなく、小さいけれどもれっきとした主体として扱う必要のある存在で、虐待などはもってのほかなのです。

(2)子どもは未来の大人です
幼い子どもは大人に育てられなければ生きていけませんが、でも、お母さんやお父さんや先生に憧れ、自分も同じようにしてみたいと思って生きています。1歳を過ぎると、やってみるとまだできないことでも「自分で」「自分が」と自分でやりたがるのは、子どもが未来の大人であることの証あかしの一つです。2歳の子どもでも、「まだできないでしょ」と大人にいわれると、プライドを傷つけられたといわんばかりに膨ふくれたり怒ったりします。どの子にも、早く大人になりたいという気持ちが働いています。
 しかし、まわりが早くいろいろなことをできるようになりなさいと背中を押しすぎると、僕(私)はまだ子どもだから、もっと甘えたいし、もっとお母さんにしてほしいというでしょう。早く大人に近づけようと焦あせると、まだ子どもだからと子どもの側に引きこもり、子どもの側に押し込めようとすると、もう大きいのだからと抵抗する。ここにも子育てが難しくなる理由があります。
 お母さんからよく、「どこまで甘えさせていいのですか?」「どこで厳しくしなければいけないのですか?」と問われることが多いのですが、その問いに簡単に応えられないのは、子どもが今見たような矛盾した面を抱えているからです。

>②大人という存在も不思議な捻ねじれを抱えています

 
「あー、お弁当おいしかった!」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


お弁当に込められたお母さんの愛情

 仕事を精いっぱい頑張っているKちゃんのお母さんにとって、確かにお弁当の日は辛かったと思います。大変な生活だとわかっているから、Kちゃんもお弁当の日のことをお母さんに伝えられなかったのでしょう。でも、何とか先生がお母さんにそれを伝え、お母さんも大変だといいながらもそれに応じてKちゃんのためにお弁当を作り、できたお弁当が嬉しくて、また美味しくて、Kちゃんのこの言葉になったのでしょう。普段は愛情を伝える余裕さえないような生活でも、お母さんにはKちゃんを可愛いと思う気持ちが十分にあり、それがこの日のお弁当に結びついたのだと思います。

 これは例外的なケースかもしれませんが、お弁当にお母さんの愛情が詰められるというのは、どの家庭にもあることではないでしょうか。温泉に連れて行った、遊園地に連れて行った、水族館に連れて行った等々、子どもが喜ぶことはいろいろありますが、お弁当に詰められたお母さんの愛情は、他の何ものにも代えがたいものでしょう。だから子どもは嬉しいのです。Kちゃんの「あー、お弁当おいしかった!」の言葉は、お弁当が美味しかったことを伝えるだけではなく、そこに詰まっていたお母さんの愛情が嬉しかったのでしょう。

 毎日の忙しさの中で、つい子どもを急せかしたり、思うようにしてくれないと叱ったりと、なかなか子どもと楽しい時間をすごす余裕がなく、子どももお母さんに愛情を求めても応えてくれないと思いがちです。しかしこのようなエピソードを読むと、お母さんも今度のお弁当の日には、子どものために愛情のたっぷり詰まったお弁当を作ってあげようと思うのではないでしょうか。

第17回は1月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。
「あー、お弁当おいしかった!」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


「あー、お弁当おいしかった!」

 ここで、一つの事例を紹介してみたいと思います。

 Kちゃん(3歳児)はお母さんと二人で暮らしていて、お母さんの仕事は朝が早く、また重労働なので、お迎えの後は祖父母の家で晩ご飯を一緒に食べ、お風呂にも入って、寝るためにだけ家に帰り、朝もほとんどがパンと牛乳だけの生活です。朝一番に登園して、一番遅く帰る毎日なので、お母さんと担任の先生が顔を合わせる機会はめったにありません。

 お弁当の日が決まり、子どもたちにもそのチラシが配られましたが、Kちゃんはお母さんが大変なことがよくわかっているので、そのチラシをお母さんに渡すことができません。そして、お弁当の日が近づいてきて、みんながそれを楽しみに話し合っているのに、その話の輪に入ることができません。そしてとうとう、Kちゃんは先生に「お弁当の日のこと、まだお母さんに話してない、先生、話して」といいに来ます。

 先生はKちゃんのお母さんと最近顔を合わせていなかったことに気づいて、その日はお母さんがお迎えに来るまで待ち、お弁当のことを口頭で伝えました。お母さんは困った顔をされて、「お弁当ですか…チラシがあったんですね、もらって帰ります」と硬い表情で帰られたそうです。

 でも次の日、Kちゃんはニコニコして保育園に来るなり、「先生、お母さんがお弁当作るっていってくれた!」と伝えてきました。そしてお弁当の日の当日、Kちゃんはお弁当を大事に持ってきて、みんなと一緒に食べ、食べ終わると、「あー、お弁当おいしかった!」と満足した笑顔で午睡に向かいました。

 その日も、先生はお母さんがお迎えに来るまで待ち、お母さんが来られると、「お母さん、ご苦労様、お弁当作り大変でしたね。Kちゃん、本当に喜んで、お弁当が終わったら、みんなに聞こえるような大きな声で『あー、お弁当おいしかった!』といったんですよ」と伝えると、お母さんのいつもの硬い表情が少し和らぎ、「先生、本当に大変だったんですよ。しばらく料理なんてしていないし」といいながら、お母さんも嬉しそうで、サヨナラをいって二人で帰る後ろ姿に、先生もほっと嬉しい気持ちになったとおっしゃっていました。

 お弁当の日が、Kちゃんにとってはお母さんの愛情を確かめることのできた大事な一日になったのでしょう。

>③お弁当に込められたお母さんの愛情
「あー、お弁当おいしかった!」
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)


お弁当の日

 保育園では、普段は給食ですが、たまにお弁当の日が用意されます。お弁当の日はどの子もとても楽しみにしていて、お弁当箱を開けた時の子どもの笑顔は、嬉しさや喜びに満ち溢れています。しかし、朝は毎日戦争のようにバタバタと忙しいお母さんにとって、お弁当の日は準備が大変ですね。
時には、「朝は忙しくて、とてもお弁当を用意する時間などないのに」と嘆くお母さんの声も聞こえてきます。

 ある先生は、「お母さんの忙しい気持ちもわかりますが、子どもたちはとても楽しみで、単にお弁当が美味しいからだけではなく、そこにお母さんの愛情が詰まっているとわかるから嬉しいのでしょうね」と語り、ある日のクラス便りには、「お弁当の日が決まると、その日までに親子のあいだでお弁当を巡っていろいろなコミュニケーションができます。どんなお弁当がいいのか、親子でコミュニケーションをしっかりもって、子どもさんの喜ぶお弁当にしていただきたいですね。もしもお弁当の用意や、お弁当の作り方がわからないなどのことがありましたら、お弁当の作り方のレシピを書いたチラシも用意していますので、参考にしてください」と書かれていました。

 確かに、お母さんは毎日忙しく、帰って大急ぎで夕事の準備、夕食が終わったら子どもたちをお風呂に入れて寝かせてと、子どもたちが寝静まるまで大変でしょう。そこにお弁当の日が来ると、そのための買い物もしなければならないでしょうし、朝の準備も大変でしょう。だから、しょっちゅうお弁当の日というわけにはいきませんが、子どもは「パンダのおにぎり弁当がいい」「ウインナーの入ったお弁当がいい」など、自分の好きなものの入ったお弁当をお母さんに伝え、お母さんも忙しさの中で子どもの喜ぶお弁当を作ってあげようと思う人がほとんどです。

 しかし、いろいろな事情でどうしてもその日はお弁当を用意できない人もおられます。ですから保育者は、そういう場合を想定して、2、3人の子どものお弁当を別に用意しておくことも稀ではなく、お弁当のない子どもがいないように、様々な配慮をしてお弁当の日を迎えるのが普通です。

>②「あー、お弁当おいしかった!」
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