公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

東日本大震災・福島第一原発事故後2年10か月
◆「あたりまえの生活」がどれだけ大切なものなのか◆

近藤啓一●福島県南相馬市・北町保育所副所長

【保育通信No.705/2014年1月号】

2013年の夏は各地で自然災害が発生し、多くの災害で被害を受けた方には心からお見舞い申し上げます。
震災から2年半経過した南相馬市では平穏な夏でした。いつも通りの保育を実施し、子どもたちは元気に園庭を走り回っています。このような日常の中、私自身「被災地」と呼ばれることに若干の戸惑いを感じています。
しかし、少し目を転じると、園庭には放射線量計測のモニタリングポストが無表情に鎮座。お休みしている保育室では給食食材の放射線量を毎日計測。廊下には、支援でいただいた飲料水の在庫。保育所の外に目を移せば、子どもたちの消えた公園、夜8時には人通りの絶える市街地、耕作を禁止されて雑草が支配する広大な田んぼ、それとともに姿を消してしまったトンボやカエル…。
とても不自然な世界が広がります。これを被災地と呼ぶのだと自身を納得させます。
東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、市内の状況は時が止まったがごとく良くも悪くもなっていません。
事故直後は、慌ただしい避難生活や不安になっている周囲にいる大人の影響でやや落ち着きのない子どもたちでした。保育所に寄せる保護者さんたちのニーズは「あたりまえの生活を送らせてほしい」でした。私たち保育所スタッフも安心して遊び、食べ、くつろげるあたりまえの生活を実現できるよう努めてきました。
お陰様で、現在は園庭の放射線量も毎時0.15μSv未満となり、屋外活動も思う存分楽しめるようになっています。子どもたちはのびのびと生活しています。


【南相馬市で生活する方々】
放射性物質による環境汚染、それによる子どもたちへの影響を気にしない親さんはもちろん皆無です。保育所の中は真っ先に除染した結果、比較的良好な状況ですが、園外では未だ線量の高い地点が多くあり、公園などで遊ばせられない家庭も多く、休日は隣県の宮城や山形まで遊びに連れて行くケースは多く見られます。
自分たちの不安な様子が子どもたちに影響するため、多くの親さんは比較的平穏をとりもどしています。しかし、最近の原発のトラブルに際して多く聞くのが「また避難するのは嫌だ」という声です。それだけ、避難生活は大人にとってもトラウマになっています。
親さんの最大の不安は、医療と教育の問題と感じます。
市内の小児科専門医はほとんどなく、内科と一緒にやっている医院でも、少々むずかしい症状になると市外の病院へ紹介されます。市立総合病院も外来診察は午前中のみ。震災前は受け入れていた小児入院も現在はなく、約25km離れた相馬市まで行かなければいけません。命を守る拠点である病院不足はきわめて重い問題です。
教育問題では、約半数になってしまった小中学校で行われている教育について、子どもの将来設計にも関係する問題なので多くの親さんは悩んでいます。
それらの問題に不安を感じながら、しかし、多くの親さんは一生懸命明るく子どもを育てています。

【避難されている方々】
避難して2年半以上経ち、元園児世帯との連絡も少なくなり、リアルな声も得にくくなっています。その中で耳にした状況は、放射性物質汚染問題は心配していないが、子どものことを考えると帰還できない。これは、子どもの健康問題というより、現在の環境に関してです。
2011年3月中旬。友だちと「さよなら」もできずにいきなり散り散りになった子どもたち。不安で慌ただしい避難生活を通して子どもたちは孤独の中にいました。
そして始まった新学期。あくまで仮の生活と考えていた大人は多かったでしょう。暫定的なつもりで入学、通学を始めた子どもたちはそこで人間関係をつくり始めます。友人に囲まれ、いきいきとして楽しんでいる子どもの姿を見ると、再び彼らの世界を引き裂くのは躊躇われるのです。それは親として当然の感情だろうと思われます。
子どもたちにとって、故郷の思い出はほとんどありません。彼らは今現在を生きているのです。
また、長期間避難していることで引け目を感じてしまい、今更帰って近所や職場の人に何いわれるか、どう思われるか怖い。実際は地元では帰還を歓迎する声がほとんどですが、「南相馬市=みんな苦労している」という形ばかりがメディアにのると引け目を感じてしまうのは理解せざるをえません。行政等では盛んに帰還促進の計画がつくられていますが、これらの深刻な声を聞いていると、どんな計画も今ひとつ心に響いてきません。私自身、この問題には解決策は見つけられません。

【父親不在の家庭】
未だ多く存在するのが、市内に父親のみが残り、母親と子どもたちは避難しているケースです(もちろんごく少数ですが母残留、父子避難のケースもあります)。これは、単身赴任的な状況ですが、二重生活にかかる経済的負担は大きく、一方でそれを補う手当などないため、生活がかなり圧迫されている状況があります。さらに、いつも夕方になれば帰ってきて当然の家族が長期間不在となる不自然さが子どもに与える影響は無視できません。
このような不自然さに対し、意見の行き違いで崩壊する家庭も少なくありません。原発事故は、発電所に何の関係もない家庭すらも破壊し続けています。

【保育士は…】
保育所のスタッフの多くも離職しました。結果として残ったスタッフの負担はかなり重いものになっています。
避難して離職したスタッフを責める気持ちはまったくありません。前代未聞の事故に際して避難すること、残ることのどちらが正義かなど軽々に判断できません。しかし現実問題として、募集しても有資格者は一向に来ません。ただでさえ全国的な保育士不足の中、南相馬市は著しいハンディキャップを課せられています。微々たる数ですが、徐々に帰還し保育を希望する人も見られるようになりましたが、現状では基準を満たす職員が確保できず、泣く泣く応募を断らざるを得ない状況にあります。
震災直後より民間園3園が法人の壁を越えて共同で始めた臨時保育園「なかよし保育園」から始まり、除染を経て自園での保育再開と2年半、スタッフは疲れた様子も見せず奮闘しています。その頑張りに応えるよう、一刻も早いスタッフの確保が必要な状況です。
見えない疲労の蓄積が最も恐れているところです。

【放射性物質による環境汚染とその他の雑感】
放射性物質による環境汚染を具体的に描ける人は、今まで皆無でした。 30数年前のSFアニメで描かれたのは“放射能”に汚染された地球の地表面は水もなく、一切の生命の存在も許さない世界でした。しかし、現実の汚染はもっと静かで陰湿なものです。五感をフルに働かせてもその存在を感知するのは不可能です。唯一、放射線測定器の表示のみがその存在を示しています。しかし、確実に“それ”は存在し、放射線を放っています。
先述のアニメでは、苦労して放射能除去装置を持ち帰り、地球は青い星に戻りますが、現在の技術では、放射能は換気すれば除去できるような代物ではありません。できるのは放射性物質を漉しとり、まとめて、できるだけ人間から遠ざけることだけです。彼らは一度放射線を放出し始めれば止めることはできず、その能力の続く限り放射線を放出し続ける、それが放射能なのです。
9月に入り、東京で再びオリンピックが開催されることが決まりました。私は、この決定の前から複雑な気持ちで眺めていました。「それより東電の原発処理のほうが先じゃないの?」と。そして五輪開催地決定直前、政府は廃炉に向けて巨額の予算措置を行うことを発表しました。「五輪開催地決定を確保するための予算措置?つまり私たちの生活より五輪のほうが大切なのか?」とやや興奮してしまったこともあります。「結果的に廃炉作業が進むのだからいいのではないか」と周囲に諌められましたが、やはり納得できません。
私か五輪開催決定に素直になれない具体的な理由は、開催に向けて除染、廃炉作業が遅れるのではないかという懸念があるからです。現在、東電の原発で作業する人員は十分ではないといわれています。しかも、被ばく許容量の上限に達したベテラン作業員が次々と現場を去り、現在従事している作業員の多くは、原発という高度なシステムに対する教育も訓練も不十分なまま投入されている練度の低い人員であるといわれています。資材の処理忘れ、パイプの接続の左右間違いなどの単純なミスを聞くと、納得してしまう部分も多々あります。ただでさえ人員不足で難儀している中、東京オリンピックという一大プロジェクトに人員を持って行かれると、いったいどうなるのだろう。これが南相馬市で人不足に悩みながら仕事をしている私の率直な気持ちです。
一時はこのようなことを□にするだけでバッシングを受けかねない不穏な世情でしたが、このような心配をリアルに語れるのも私たち南相馬市で生きている者です。
全国のみなさんに申し上げたいのは、これから7年間、東京オリンピックの興奮の陰で東京電力福島第一原子力発電所がどうなっていくのか注視していただきたいということです。これは福島の子どもに限らず、有効な手を打たねば、全地球の子どもたちの問題になるといっても過言ではありません。

【おわりに…】
9月28日、北町保育所の運動会が3年ぶりに園庭で開催されました。昨年は保護者の不安を受けて体育館での実施でした。素晴らしい青空の下、園庭では親子の笑顔と歓声があふれました。子どもたちは保護者さんと保育所スタッフの努力で、何の屈託もない生活を送っています。「あたりまえの生活」がどれだけ大切なものかを学びました。
そしてこの冬にかけて、入所児童の弟、妹の誕生が相次ぎます。大変な問題も山積していますが、身近で新しい命を迎えるのはとても嬉しく、明るい気分になります。
私たちの取り組んでいる放射性物質汚染問題に正解はなく、誰もモデルを示してはくれません。一つひとつ答えを自分たちで考えながら取り組まなければなりません。それでも私たちは、この子らの出生地から一刻も早く「被災地」という言葉を取り除くべく、毅然とした態度で、しかし肩の力は抜いて進んでいこうと思います。

東日本大震災・福島第一原発事故後2年9か月
◆福島県南相馬市の子どもたちの今◆

遠藤美保子●福島県南相馬市原町聖愛保育園園長

【保育通信No.704/2013年12月号】

「これは放射性物質がついていないから、触ってもいいの?」と、5歳児が顔を上げて、傍にいた先生に確認しながらそっと手をのばし、鳥の羽根を拾い上げました。
地面に落ちているのを見つけて、「きれい」といいながら見ていたので、担任が「持って帰ってもいいよ」と声をかけたのです。
今夏、年長児が招かれて、2泊3日のお泊り会を軽井沢で行った時のことでした。
野外での遊びが震災後はまったくできていなかったので、軽井沢ではきっと子どもたちは解放されて、元気に遊びまわるだろうと期待をして出かけました。
しかし、実際に行ってみると、森の中の道を歩いても、まわりの葉っぱや木の実、虫などには目もくれず、前の人について歩くだけ、川に入っても、遊べずにすぐに上かってしまうなど、震災前に見ていた、嬉々として遊ぶ子どもの姿とは違っていました。2年間の空白の時間の重さを感じました。

また園で、今年7月に新しくつくり直した砂場をオープンする日に、3歳児が、「今日は、本当にお砂に触ってもいい日なの?」と先生に尋ねました。
今まで「触っちやダメ」といわれ続けてきて、生まれてからこの時まで砂遊びをしたことがなく、園でも、震災からすっと砂場を使っていなかったのです。

震災直後、半年間の休園の後、保育園再開に先駆けて、今後の保育の進め方について職員で話し合いました。今まで当たり前にしていた園庭での遊び(砂場やどろんこ)、里山や川、海に出かけて遊ぶ園外保育などができないので、保育の方針を変更せざるをえなくなったからです。
話し合いは、何からどのように話したらいいのかわからず、意見もなく時間が過ぎていきました。「また、次回に」と、意見を持ち寄ることにして解散することが繰り返され、何度目かの話し合いの時のことでした。
「これからどのようにできるかわからないが、これまでのように“自然”をテーマにして保育をしたい」という意見が出され、とにかく動き出そうという気持ちで決めました。
この時点ではまだ、放射能に汚染された現実を正しく理解できずに、微かな希望を抱いていました。しかし、汚染の実態がこの先何年も続くと理解した時に、未来を断たれた失望感が襲いました。

原町聖愛保育園は、東京電力福島第一原子力発電所から、24.5kinに位置しています。園庭と園舎内外の除染を行い、2011年10月11日に自園での保育を再開しました。
この時に、さまざまな約束を決めました。
●園庭に出る時はマスクをする(2012年8月まで)。
●園庭遊びの時間は30分。
●園庭の草花や虫、砂や石には触らない。
●決められた場所で遊ぶ。
●入室の際は靴底の土を削ぎ落とし、衣服の塵を刷毛で払う。
●室内履きに換えたら、粘着シートを踏んで埃を取る。
などです。
子どもたちはこの地で生活し、成長しますから、子どもの時から自分のできることを守って実行することが身につけられるとも思いました。子どもたちは、先生が注意をしなくても約束を守っています。

しかし一方では、制限が多くなって子どもの体験する機会を奪い、心を束縛しているのではないだろうかと、常に疑問がつきまといます。
福島の子どもの体力低下がいわれていますが、「放射性物質がついていない?」「ホントに触っていいの?」と、何をするにも、見えないものへの恐怖や規制を感じている子どもの心には、どのような影響があるのだろうと、体力同様、それ以上に心配なことです。
放射能から子どもを守りながら、健やかな育ちを支えていくにはどうすればよいのか。積極的な考えと取り組みが必要であると強く思わされ、暗中模索をしているところです。

当園は、近くに県立公園の里山があり、1年を通して出かけていました。震災後2年半が過ぎた今でも、震災前に遊んでいた場所は、放射線量が2013年7月で0.47~0.63μSv/h、場所によっては1μSv/h(震災前は0.04~0.05μSv/h)を超えるところもあります。
放射性物質の半減期は、セシウム134は2年、137は30年ですから、1~2年後に少し下がったとしても、その後はずっとこのまま変わらない状態が続きます。
「除染をして、もとのようになったでしょ?!」
「放射能って、まだ終わっていなかったの?」
と、いわれることがあり、私たちはとても悔しい思いをしています。
除染は遅々として進まない中で、健康被害を心配しながら生活をせざるをえない苦悩や、放射能から子どもを守ることのむずかしさにもっと関心をもってほしいと願っています。

今ここに住んでいる人たちは、安心して住んでいるわけではありません。今年度の在園児の家庭食事調査結果では、水はペットボトル使用が70%弱、野菜は県外産使用が50%強でした。
表面的には通常の生活を取り戻したようでも、その内面は葛藤の連続です。
8月末、年長児の園外保育(放射線の心配がない場所ヘバスで約2時間)の参加の有無を保護者に尋ねた時、不参加と応えた保護者がいました。[今になって?]と思いましたが、親の思いを子ども自身も感じているようでしたので、私たちは受けとめて、参加させませんでした。
みな、それぞれ厳しい現実を受け入れつつ、迷いながらも前に進みたいと思っているのです。
全国の皆様のご支援と励ましに、心から感謝申し上げます。

東日本大震災・福島第一原発事故後2年8か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【6】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.703/2013年11月号】

◆「まだ終わっていない」ということを 知ってほしい
 地震発生時、私は本園舎にいました。地震の揺れの時、もも組付近にいたので行ってみると、午睡後のようで、保育者のまわりに園児が集まっていました。
 揺れが激しくなってきたので、アップル組に行ってみると、子どもたちは保育者のまわりに集まり避難をしていました。まだまだ激しい揺れの中、私は新園舎のほうへ行ってみました。新園舎までのわずかな道も揺れていて、やっとの思いで辿り着くと、さくらんぼ組、いちご組の部屋も、午睡後の子どもたちがとても不安そうに保育者のまわりに寄り添い、揺れがおさまるのを待っているのが目に入りました。
 この時、すでに部屋の中もグチャグチャで、ベビーベッドはロックしているはずなのに激しく揺れ、避難準備のため開けてある窓も大きく左右に揺れて、物が落ちる音が次々に聞こえてきました。私はただごとではないと感じたので、大きな揺れの中、あるだけのおんぶ紐を保育士にわたし、揺れが落ち着いたら、すぐ避難できるように声をかけました。
 柗本先生も来てくださり、やっと落ち着いてきた時を待って直ちに避難しました。毎月避難訓練もしていたこともあり、避難はスムーズに進みました。しかし、想定外の地震の大きさだったので、保育士も不安でいっぱいでした。無事に避難の報告も済みましたが、園舎の中、園庭、戸外が一瞬で変わり果てた様子を見ると、冷静に考えなくてはならないのに、不安でいっぱいでした。
 1回目の大きな揺れがおさまっても、次々に余震が起きて、そのたびに曲がってしまった電柱の電線がバチバチと火の粉を上げたり、地割れしている地面、また雪もちらついてきて、子どもたちをはじめ、みんなのいっそう不安になってきた顔が忘れられません。
 テレビで、津波の避難指示も出されたことも知り、北小学校へ避難することになりました。何人かの保護者のお迎えがありましたが、まだ大半の子どもたちは残っており、みんなで道路もグチャグチャになっているところを通りながら、避難先の小学校へ向かいました。電話もケータイもつながらないという状況だったので、園長先生が園に残り、保護者の方に伝達してくださいました。
 余震もあったので、ほとんど何も持たないまま、保育士と子どもたちは北小学校へ行きました。すべてが想定外のことで、避難訓練で訓練してきたことまでは想定できる範囲内でも、そこから先は未知の世界でした。まだ5か月の子どももいて、物資が来るまでミルクやおむつの手配ができなかったので、一度園に取りに戻ったりと、準備不足に後々反省させられました。
 子どもたちは、園長先生の伝達もあり、名簿を正確にチェックしながら、夜7〜8時頃には全員無事、保護者のもとに帰ることができ、それが一番安心しました。
 やはり、避難グッズをすぐ持って避難することなど、今だからたくさんの反省があります。でも、本当に想定外というか予想もつかないような長く強い揺れだったので、いかに冷静に動けるかということが重要なのだと思いました。
 また、今回の原発事故は、本当に映画のような出来事で、それが一瞬で私たちの生活を奪ってしまったという事実は、今も私たちにたくさんの不安を与えています。

 私は、震災前は双葉郡広野町に住んでいました。今の広野町は、避難指示も解除になり、戻っている住民もいますが、まだまだという状況で、原発で働く人が多く住み、働いている人で賑わってはいます。
 しかし私個人としては、4歳と2歳の子どもがいるので、まだ放射能や原子力発電所への距離、幼稚園の機能の不安など、まだまだ抱える不安も多く、いわき市へ避難しています。子どもをもつ母親として甲状腺癌への不安、子どもたちの将来の不安、今現在の不安といつも闘っています。半月に1回の健康検査では採血があり、内部被爆の検査結果が出るまでの不安や、戸外はどのくらい大丈夫なのかなど、いつも不安と隣どうしの生活を送っています。
 メディアを見ては、いろいろな意見があり、また考えてしまったり、将来への見通しも立たず、幸い親族が近くにいますが、同級生の同じくらいの子どもをもつ友人たちは県外へ避難している人も多く、また一人で不安になったりする毎日です。
 3月11日から、何も持たずに避難し、埼玉県、愛知県、そしていわき市に落ち着き、気持ちも前へ向こうとしても、たくさんの不安と悩みから、抜け出せなくなっています。それでも子どもたちは成長し、日々は流れていっています。たぶん、子どもをもつ母親でなくても、そういう避難をしている方たちは、いろんな悩みや不安を抱えて生活していると思います。
 確かに、何も起こらなくても、そういう悩みや不安は日々の中で何かしらあったと思います。でも私たちは、常に今、将来、そして故郷への思い、たくさんの不安と思いを抱えています。2年半が経過して、だんたんと事の重大さも薄れていっているように感じます。でも、「まだ終わっていない」ということを、自分自身もそうですが、まだまだみんなに知っていただきたいと思います。

(堀江裕美/保育士)

◆とにかく健康でいなければ
 2011年3月11日、この日から人生が大きく変わってしまいました。
 度々地震が起きていたので、近いうちに大きな地震が起こるのではないかと思っていましたが、これほどの大震災になるとは思っていませんでした。まして、自分たちが原発事故により被災避難することになるなどとは、夢にも思っていませんでした。
 最初は、なかなか現実を受けとめることができず、夢であってほしいと何度思ったことかわかりません。
 突然、日常が壊され、家族もバラバラになり、愛犬もあるだけのエサを出して置いてきてしまいました。
 普通の暮らしがどれほど大切なものだったか、今回の震災で痛感しました。震災当時は、一日も早く一時帰宅したいと願っていましたが、2回、3回と戻るうちに、この間までここで生活していたんだと思うと、一時帰宅で帰るたびに切ない気持ちになり、荒れていく風景を見ながら、涙をこらえて戻ってきています。
 あちらこちらで、家を建てたとか中古物件を見つけたとか、それぞれ前に進んでいますが、わが家はこの先どう動いていいのかわからず、決めかねています。
 先が見えないもどかしさ、宙ぶらりんでいる状態が辛く感じる時もありますが、震災から2年半が過ぎようとしている最近になって、やっと少しずつでも前に進まなくてはという気持ちになってきました。
 まだまだ不安なことが多い現実ですが、いろいろな方からの支援に、感謝する気持ちを忘れず、前を向いていかなくてはと思います。
 浜通りとは気候の違いを実感していますが、とにかく健康でいなければと思っています。保育園の再建が一日も早くできることを、願っています。

(折原明美/保育士)

◆不安と、さまざまな気持ちでいっぱい
 震災当日、私はいちご組にいて、子どもたちの午睡も終わり、起こしていると、ケータイが「ブー、ブー」と鳴り始めました。「地震だ!」と思ったところ揺れ始め、だんだん大きくなりました。
 避難訓練の時のように窓を開けましたが、窓も左右へ揺れ、物は落ち、とても恐怖でいっぱいでした。
 子どもたちと布団の上に集まり、起き上がることもできず、頭を低くし、ただただ地震が落ち着くのを待っていました。一度おさまったところで子どもたちを抱き、外へ避難しました。外の外灯も、左右に大きく揺れていました。外に出ると、駐車場も地割れしていて、恐ろしくてたまりませんでした。
 小学校への移動中、まわりを見ると、まわりの景色が変わり果てていました。
 次の日、双葉町から川俣町への移動となり、道もどこが通れるのかわからず、この先どうなるのか、原発はどうなるのか、不安でいっぱいでした。小学校でバスを待っていると、警察の車がたくさん前を通り、ガスマスクをした人がいて、取り残された気持ちでした。
 今の私の気持ちとしては、子どもたち全員、無事に帰すことができてよかったと思います。地震が起こるたびに、ドキドキして不安でいっぱいになります。そして、地元に帰れない淋しさなど、さまざまな気持ちです。

(磯部康子/保育士)

◆いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を
 私の誕生日は、3月11日です。
 あの日は、もう少しで勤務も終わり家に帰るのを楽しみにしていました。わが家では、誕生日にはささやかなお祝いをして、後日、日時を決めて外で食事会をするようにしていました。
 息子、娘、姪は、夕方の時間指定で私にプレゼントを送ってくれたらしいのですが、地震で私のところには届きませんでした。きっと、宅配便の車の中にあったのでしょう。
 震災と原子力災害で、家族は離れ離れになってしまいました。昨年の誕生日は何もできず、電話で孫たちと話をするだけでした。
 今年も、家族の誕生日に集まることはできないと思いますが、2か月に一度など、都合をつけて集まれるように私が計画を立てています。
 3月11日は、生涯忘れることのできない日になりました。子どもや孫たちは、震災・原子力災害を思い出すたびに、私の誕生日を思い出すことでしょう。
 私は、いつか家族で故郷に戻り、みんなで誕生会を催したいと願うばかりです。

(吉田教子/保育士)

東日本大震災・福島第一原発事故後2年7か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【5】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.702/2013年10月号】

◆心はあの日から止まったまま
昨年娘を出産しました。親馬鹿ではありますが、可愛さがましてきた今日この頃です。長女もあれから2年が過ぎ、今年で4歳になります。日々すくすくと成長する2人の娘の笑顔を見ては安らぎ、親であることを実感しています。
3月11日の震災当日は、満了式を前に思い出づくりを始めたところでした。今まで引越しなどで途中退園し、お別れした友だちに絵を描いて、思い出としてプレゼントをしていたこともあり、クラス全員が一人ひとりの絵を描いてプレゼントしようと始めていた時でした。
おやつの時間も近づき、今日は片づけて続きはまた後でと声掛けをした直後に地震が起こりました。過去に経験したことのない揺れ、何かが違うと感じ、直ちに園児たちを机下に避難させ、トイレへ行こうと保育室から出た数名の子どもの安全確認を行い、子どもたちを机下に避難させましたが揺れは激しくなり、棚上に重ねておいた1年間の子どもたちの絵画作品が崩れ落ち、棚が傾き、子どもたちに危険のないように激しく揺れる棚を押えながら早く揺れがおさまってと願い、子どもたちと早く安全な場所に避難しなければと考えるだけで精いっぱいでした。北小学校へ避難する時も道路の陥没や落下物に注意しながら子どもたちを安全に誘導し、無事、保護者に戻さなければという気持ちでいっぱいでした。
今振り返ってみると、あのような状況下で子どもたちが誰一人として怪我をすることなく保護者に戻すことができたのは奇跡ではないかと感じています。わが子も幼いながら何かを感じていたのか、抱っこをやめるとすぐ起きて泣きの繰り返しで、娘を抱っこしながら主人、父とすごしていました。
その後、原発事故が起こり、すぐに私の実家である原町へ一旦は避難したものの、娘を守りたい一心で、安全だといわれる場所を探して避難を続けました。
原発事故がなければ、現在も地元で娘たちと一緒に生活をしていたことでしょう。祖父母にも娘の成長をまじかで見せることができたのに、あの日常の生活すべてが奪われ、いかに自分が無力であるか、悲しさ、悔しさを抱えながら時間ばかりが過ぎています。震災当日から別の場所で別の生活を続けていますが、私の心はあの日から止まったままです。今、私たち家族は埼玉県戸田市に居住していますが、まどか保育園のカリキュラムを思うと素晴らしい内容であったことを実感しています。
震災以前の暮らしに戻すことはできませんが、少しでも安全と思える場所での生活を選択しなければならないのが現実です。まどか保育園のパイン組だった子どもたちもあっという間に小学校3年生です。皆さんが避難先でご苦労をされながらも元気で生活されることを切に願うばかりです。子どもたちの笑顔を守りながら。

(酒井有佳里/保育士)

◆また保育の仕事に携わりたい
地震が起きた時、メロン組の子どもたちは午睡が終わり着替えをしている時間でした。私は布団を片づけている途中で大きな揺れを感じ、急いで部屋に戻ると子どもたちは皆、自主的に机下に隠れていました。日頃の避難訓練がいざという時にいかせたという思いでした。
その後、北小学校に避難する時、メロン組は3分の1くらいの子どもがまだ残っており一緒に避難しましたが、小学校へ遊びに行ったと勘違いした子もいて、ふざけないようにするのに必死でした。保護者のお迎えが遅かった子どもたちは、その当時の記憶がはっきりしないというような話も聞きました。
地震がなければ当たり前のように働き、地元の大勢の方と接することができていたのに、避難先では知り合いも少なく、身内とのかかわりばかりになってしまい、寂しい気持ちです。また、今まで保育をしてきた子どもたちの近況等も聞くことができなくなったのも寂しく思います。私は今、子育てに専念していますが、育児が落ち着いたらまた保育の仕事に携わりたいと思っています。

(猪狩 香/保育士)

◆埼玉県での避難生活を始めることに
地震が起きた時、私は乳児棟で0歳児の午睡後の対応を他の保育士と行っていました。突然轟音と大きな揺れが起こり、身体が倒れそうになったことを覚えています。とっさに窓を開け、寝ている子どもたちのところへ戻った直後、1歳の女児が泣きながら開いている窓から飛びだそうとしており、すぐに駆け寄り飛び出さないようにしてから他の保育士と一緒に再び寝ている子どもたちのところに戻り、子どもの上に両手を広げて覆いかぶさるような姿勢で地震がおさまるのを待っていました。しかし揺れは更に激しくなり、寝ている子どもたちの近くにあったベビーベッドがぶつかり合いながらギシギシと音を立て、今にも目の前に迫ってくるような勢いでした。
両手を広げ被さっている身体は左右に大きく揺れ、ベビーベッドの様子を見ながらもどうすることもできない無力さに、家具等が「子どもたちのところに来ないで」と必死に祈りながら、自分の身の安全を確保することで精いっぱいだったように記憶しています。
しばらくすると大きな揺れも徐々におさまり、幸いにも子どもたちに怪我はなく、揺れがおさまりました。と同時に窓から子どもたちを散歩車に移し、玄関前の広場に避難し、保護者のお迎えを待っていました。当日は午後から寒さが厳しく雪もやみぞれが降り始めたこともあり、子どもたちの衣類を取りに園に戻ると、園舎内の冷蔵庫は前後に動いてその上にあった電子レンジはコード1本で吊られているように落下寸前の状況でした。
やがて警察、消防団の方が来られ、心強く感じたことを覚えています。その後、近くの小学校へ避難するように指示があり、すべての保育士が園児を誘導し避難しました。私は他の保育士と一緒に散歩車に園児を乗せ、小学校に向かいました。小学校に通じる道路は避難する車ですごい渋滞だったと記憶しています。避難をしている最中、私の脳裏にふと思い浮かんだのは原発のことでした。近隣の方からの噂として、原発はマグニチュード6.5以上の揺れには耐えられないのではないかと聞かされていました。近くの歩道は陥没箇所が多数あり、その都度散歩車を止めて状況確認を行いながらの避難でした。
当日は深夜になっても大勢の方が校庭に出ており、その中には乳幼児や小中学生もいました。教室内では身体を横にできる場所も少なく、体育座りをされている方がほとんどでした。午後10時過ぎ、誰かが「換気扇がついているから切ったほうがいい」ということで、すぐに切られたのを思い出しましたが、なぜそういわれるのか、その時はまったくもってわかりませんでした。しかし、じつはその時、すでに原発の原子炉がメルトダウンを起こしていたことを後で知りました。
その後、私は埼玉県での避難生活を始めることになってしまいました。今、私は自宅から車で30分かかる群馬県の保育園に勤務しています。辛い気持ちを抱えながらの生活ではありますが、そのような中でも僅かな希望をもちながら、日々の生活を大切にすごしています。
まどか保育園では大変お世話になりました。そして皆様に出会えたことに心より感謝申し上げます。第2のまどか保育園設立を心よりお祈り申し上げます。そして皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。またいつの日かお目にかかれることができたなら幸せに思います。本当にありがとうございました。私も頑張ります。

(半谷孝子/保育士)

Reportage No.9ルポ*東日本大震災・被災地の保育園その6
放射能被害を受けて園はどう対処したか
…茨城県守谷市・まつやま保育園

【保育通信No.702/2013年10月号】

 あの東日本大震災とその後に起こった福島第一原発事故の放射能被害に見舞われてから今回の取材時(平成25年5月16日)に至るまで、2年2か月ほどが経っていますが、茨城県守谷市という比較的都心に近い通勤圏内(つくばエクスプレスで40分程)の保育園でも被害が発生しています。
 そこで今回は、子どもたち、保護者、保育園の皆がこの未体験の状況にどう対応していったのか、報告いたします。


まつやま保育園の園舎

■それまでのまつやま保育園

 つくばエクスプレスの守谷駅で関東鉄道常総線に乗り換え、南守谷駅を降りて、元々ここに住んでいるらしい雰囲気のお宅と畑や新興住宅地とが、モザイクのように混在し、樹木があちこちに茂り始めている道路を数分歩いて行くと、平屋の建物と外観が円錐形の屋根を直角に切り出したような形の建物が見えてきました。まつやま保育園に到着です。
 玄関から入ると、職員室からは、広々としたウッドデッキと、月曜から金曜日まで園庭開放で遊びが盛り上がりそうなすべり台のある大きな築山、どろんこ遊びが思いっきり楽しめそうな園庭が見え、園児と同じランチ(予約必要)が食べられるログハウス風の小ぶりの建物が見渡せます。
 園の特徴として、土と水と太陽にたわむれ、自然の恵みを体全体で味わうことを第一に挙げるほど、園児たちもどろんこ遊びや裸足保育が自然になじんでいる保育園です。

■ホットスポット・一通の手紙

 今回の地震発生から福島第一原子力発電所の炉心溶融事故により放出された放射性物質で発電所周辺が汚染されたわけですが、その後周辺地域より高い汚染レベルを示す地域があることがわかってきたのでした。いわゆるホットスポットと呼ばれる地域が、発電所より離れた飛び地に現れたのでした。
 茨城県守谷市も残念なことにこのホットスポット地域に含まれ、まつやま保育園もその中にありました。5月に入り、守谷市から放射線の測定値が公表されるようになると、園には保護者から要望が寄せられるようになりました。
 国からの情報提供が非常に少ないことに疑問を感じていた松山岩夫園長先生は、早くから情報収集を行い、保護者などからの要望や相談に耳を傾けながら、独自に放射線測定器を購入し、園庭と建物周辺の測定を始めました。
 平行して、市内の施設長会議で、給食材料の放射性物質検査と対応策を決定し、各園との連携を進め、5月中に市も食材検査の開始決定をしています。


除染が完了した大きな築山のある園庭

■園としての決断・除染作業へ

 松山園長先生は、保護者対応と守谷市との折衝、市内各園と連携を重ねるうちに、一つの決断を下しました。それは、他園に先んじて園庭の除染を独自にでも行うこと、給食食材の地産地消の中止です。
 施設長会には申し訳ないと思いながらも、一刻も早く対応策をとりたいという思いだったそうです。
 そして5月25日、資料と要望書を守谷市に提出しました。
 当面、除染が終わるまで外遊びを自粛、裸足保育も中止し、手洗いとうがいを励行しました。
 園庭の表土を削り取ることと砂場の砂の入れ替えを実施したところ、のちに表土の確保と工事に必要な重機、オペレーターの費用を市が協力するとの申し出があったそうです。
 6月8日、市による放射線測定がありました。5月24日時点で、地表面0㎝で0・365マイクロシーベルト/時間、地表面50㎝で0・395マイクロシーベルト/時間だったものが、それぞれ0・126マイクロシーベルト/時間、0・151マイクロシーベルト/時間に低下したので、園長はじめ職員一同安堵したそうですが、これがきっかけとなって除染が守谷市全体に波及していったそうです。


福島第一原発から漏れた放射能の広がり
http://www.flickr.com/photos/nomachishinri/5715718091/

■これからの子どもたちや地域のことなど    

 「除染作業を素早く行ったことにより、保護者との信頼関係が得られた」と話される松山園長先生ですが、散歩先の公園の線量測定の値によって対応を考えたり、子どもたちが製作に使う落ち葉や木の実は事前に水洗いをしているそうです。
 現在も園内外の数か所を毎日定点観測し、掲示を続け、食材の調達についても依然、配慮しているそうです。しかし、「安全性が確認されれば、また地産地消に戻して、地元の美味しい野菜やお米を取り入れたい」とおっしゃっていました。
 子どもたちと一緒に遊び、給食を楽しく食べる姿に救われ、今はほぼ普段通りの園生活を送っていることがなによりだそうです。


お話を伺った松山岩夫園長先生
 

■おわりに

 今回、松山園長先生にお話を伺った中で、『「正しく怖がる」ことです』という言葉にぶつかりました。
 そういえばと思い、以前の原発関連記事をひっくり返してみたのですが、原発問題に関して研究者の方が「正しく恐れよ」という発言をされていました。そこで、ちょっとネットで調べたのですが、正しくは、
 「正当にこわがるのは、なかなかむずかしい」
 大正時代の物理学者であり、随筆家の寺田寅彦氏の言葉として紹介されています。
 怖がらなくても怖がりすぎても、「正しく怖がる」ことはなかなかどころか、相当にむずかしいことだと改めて思いました。
 現状、放射線については、保護者、園関係者も一応落ち着きを見せているそうですが、不安感が消えたわけではなく、そうならざるを得ない背景には、放射線の影響がまだよくわかっていないから、政府の示した数値が不信感を生み、それが子を思う親の「大丈夫なのだろうか」という疑問につながり、なるべくなら低いほうがいいという、数値が独り歩きしていくことになり、また不安感を煽る悪循環になっています。
 放射線やそのリスクについて正しい知識が広まり、心の被害が少なくなることも重要な気がしました。
 最後に、取材にご協力いただいた松山園長先生はじめ、まつやま保育園の皆様に感謝いたします。

(富岡孝幸/全私保連広報部)


緑の日陰が心地よい砂場。奥にログハウス風の建物がある

東日本大震災・福島第一原発事故後2年6か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【4】
東日本大震災~あの日・あの時

馬場英美●まどか保育園保育士

【保育通信No.701/2012年9月号】

◆3月11日に思うこと
 震災当日の午前中、保育園でお誕生会が開催され、三好寿司さんのマジックショーや、翌日行われるNHK歌ののど自慢予選会に出場予定だった保育士の壮行会を行っていました。園児たちと一緒に、とても楽しい時をすごしていたのを覚えています。
 そしてあの日の午後2時46分、私は保育園の事務室で携帯電話から緊急地震速報が鳴り響いた瞬間に、過去に経験したことのない非常に大きく激しい揺れに見舞われたことを、今でも鮮明に記憶しています。
 園児たちは、午睡後のおやつの準備の時間でしたが、もも組の担任が休暇のため、私は心配で急いでもも組へ向かい、他の保育士と一緒に園児たちを部屋の真ん中に集め、長い揺れがおさまるのを待ちました。そして最初の大きな揺れがおさまった後、他の保育士たちと園児の無事を確認し合い、園庭の真ん中に園児たちを避難させました。
 その間、乳児棟では他の保育士が中心となり、乳児棟前の駐車場へ避難していました。その後の余震もすごく、園庭にも大きな地割れができて、保育園に隣接している寺の本堂からはぎしぎしという音が鳴り響いていました。
 すぐに、園長と副園長の指示で全員駐車場へ避難しました。私も棚が倒れ、物が散乱していた事務室から園児の緊急連絡簿だけを持ち出しました。外で待っている間はとても寒く、余震も続き、園児たちは不安感と恐怖感が入り乱れているのではないかと感じていました。
 余震が続く中、お迎えに来られた保護者に園児を引き渡し、私はお迎えに来られない園児たちと一緒に北小学校まで徒歩で避難しました。
 避難する人々や車の往来も多い中、年長の子どもが小さい子どもと手をつないでしっかり歩き、無事に小学校に到着することができました。小学校には、すでに双葉町の方々が大勢避難しており、避難してすぐに海側では津波により大きな被害が出たことを知りました。そして、校長室にあるテレビから流れる情報で、地震の規模が非常に大きい規模であり、東北沿岸部に大きな被害が出たことを知りました。
 その後、小学校に避難していた園児たちの保護者がお迎えに来てくれましたが、保護者の方は直接子どもたちの顔を見るまでは本当に心配されていたと思います。
 私自身も家族と連絡がとれず、車は動かせず、このまま小学校ですごすしかないと思っていましたが、午後10時前に、何とか連絡のとれた主人が迎えにきてくれ、自宅に帰ることができました。
 自宅に帰り、幼稚園と保育園に行っていた3人の子どもたちの無事を確認できた時は、本当に安心し、涙が溢れる思いでした。

◆保育園からの避難を振り返って
 この大地震を経験して、保育士として園児たちや保育園としてどのような行動をとるべきかを考え、思いついたことは、緊急連絡名簿は持ち出せましたが、電話がつながらず、パソコンか携帯電話での一斉配信メールがあれば、保護者に園児の無事と避難先だけでも通知できて、保護者の不安を軽減できたのではないかということです。
 また、保育園用の非常袋を各クラス分または保育士分備蓄し、避難の際にすぐ持ち出せるように備えておくとよいかと思います(オムツや着替え、タオル、ミルクや哺乳瓶、乾パンやビスケット、水など)。
 毎月の避難訓練を実施していたため、地震発生時と避難の際に、園児たちの中で泣く子どもはいたものの、パニックに陥って逃げ出したり暴れる子どもはいなくて、きちんと保育者の話を聞いて避難することができていたと思います。
 今回の大地震で、園児たちが全員無事に保護者のもとへ帰宅することができて、本当によかったという思いでいっぱいです。

◆福島から避難して思うこと
 「福島第1原子力発電所が水素爆発を起こした」というニュースを聞いて、私たち家族5人は、3月12日の夜、福島から主人の姉が住んでいる埼玉県三郷市へ避難しました。常磐自動車道が交通規制により使用不可になっていたため、国道4号線をひたすら南へ向かい、約12時間かけて翌日の朝、到着することができました。
 長女が4月から小学校入学ということもあり、埼玉県に避難してすぐに小学校入学の手続きや準備等で、避難生活ともども、精神と肉体への負担も非常に大きかったと記憶しています。
 子どもたちは避難生活を強いられ、最初は情緒も不安定で、緊急地震速報が鳴るたびに恐怖にかられ、その都度泣いていました。また、市内のアパートに移ってからも、狭い部屋の中で家族8人が隣人に迷惑をかけないように静かに生活を送らなければなりません。故郷と異なる環境の中、いろいろなことで家族が不安に陥り、なおかつ我慢を強いられる生活でした。
 アパートでの避難生活をしていた私たちがこのように不自由さを感じているくらいでしたから、幼い子どもを抱えておられる方や子どもが多い方にとって、体育館などの避難所や仮設住宅での生活は、さらに気を遣われたのではないでしょうか。
 私は、近所の小学校や幼稚園でお友だちもでき、まわりの方々に助けていただくことにより、埼玉県での避難生活にも慣れてきたところでした。しかし、主人の仕事の都合で福島県いわき市に転居することになりました。大人の都合でまた生活環境が変わってしまうことは、子どもに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 そして、あの日から避難して約2年が過ぎましたが、子どもたちの将来がどうなるのか、とても不安です。子どもたちが転校先の生活に馴染めなかったら、いじめ等にあわないか、などという不安も感じています。
 また、子どもたちの甲状腺検査の診断結果で、私の3人の子どものうちの1人がA2(小さいしこり、膿疱がある)であることが判明しました。
 福島県では、原発の爆発事故による放射線の影響は関係ない、A2という診断結果は経過観察で、次の検査は2年後であるといっています。しかし、最近のニュースで甲状腺がんの子どもが数名いるということを知り、県はどのような理由で大丈夫というのか、憤りを感じています。そして、私と同様に、憤りを感じている保護者の方が大勢おられるのではないかと思います。
 将来、私たちの子どもが就職する時や結婚をする時、福島県出身者ということで差別を受けることになりはしないかと不安になります。
 子どもたちの将来にとって、私たちが今、そして今後、どうすることがよりよいことなのか、すべきことは何なのか、はっきりした答えや未来が見えないのが現実です。しかし、子どもたちは、日々生きて成長していきます。
 私たち保護者は、どんな環境にあっても子育てをしなければなりません。また、私たちの故郷が福島県であることに変わりありません。
 今後も子どもたちが、多くの不安の中でも、毎日元気に笑顔で生活し、成長できるように、前向きに人生を歩んでいきたいと思っています。

東日本大震災・福島第一原発事故後2年5か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【3】
東日本大震災~あの日・あの時

神野幸子●まどか保育園保育士

【保育通信No.700/2013年8月号】

 2011年3月11日は、お昼頃まで冬晴れの好天でした。当時私が担任をしていた「さくらんぼ組」の子どもたちは、午睡から次々と目を覚まし、午後2時半頃までにほとんどの子どもが起きていました。そのため、いつもより少し早めにオムツ交換を始め、2人目のお尻拭きを手元に寄せようとした瞬間、後に東日本大震災と呼ばれる巨大地震が発生しました。

 揺れの最中、慌ててオムツを伏せて、泣きながら這って来た子どもを左右の手で抱きかかえ、自分の上体を床で横になっている子どもの上に伏せ、地震がおさまるのを待ちました。別の保育士のところへ集まった子、布団の上でぼんやりしていた子、サークル内で不安そうな子たちの顔を見ましたが、揺れが強く長いため、両手が使えない状況に戸惑ってしまいました。

 余震が2度、3度と続いたところで、幼児組の園舎で満了(卒園)に向けて準備をしていた保育士たちが駆け戻って来てくれました。激しい揺れの最中、副主任がロッカー内のおんぶ紐を取りに行き、1本を受け取って1人をおんぶし、他の保育士たちがベビーカーや避難車に子どもを乗せ出しているあいだに急いでオムツを交換し、ようやく綺麗にしてあげることができました。
 幸い、子どもたちの居た場所への物の落下はありませんでしたが、何度も大きな余震が起こっているため、乳児棟前の駐車場に集まりました。
 フェンスの外に出た途端、地面やアスファルトにいくつもの亀裂が走っていたことに驚き感じました。幼児組の子どもたちと職員も集まっていましたが、保育園の正門に立っている“兵隊さんの門”が硬直し、一定方向に長く伸びて倒れていたこと、園長先生が住職を務める隣接した正福寺の本堂の壁の大部分が落下して中が丸見えの状態でした。そのあり様が目に入り、絶句してしまいました。
 消防の方たちや保護者の方も次々と駆けつけてくださいましたが、その間何度も起こる余震で太い柱の本堂が目の前でミシミシと音を立てて左右に揺れる様や、ビュンビュン唸りをあげる頭上の数本の電線、ベビーカーを押しながら地割れをまたぐように立っていると左右の足が異なって動くのを感じ、その度に恐怖を感じました。
 また、お昼過ぎまで晴れていたのが嘘のような曇り空になり、雪もチラつき、冷え込みが一段と厳しくなってとても寒かったのを覚えています。
 数名の保育士たちが乳児棟に入り、皆の防寒着や午睡用の布団・毛布等を運び出してくれ、寒さをしのぐようにと子どもたちに掛けてあげることができました。

 余震が頻発しているため、この状況では非常に危険だと判断し、保育園の職員や子どもたち、地域の方も一緒に、避難所に指定されている双葉町立北小学校へ移動することになりました。
 幼児組の次に、1人の子どもを背中におぶって6人掛けのベビーカーを押しながら、私も同行しました。至るところで亀裂や倒壊、マンホールの隆起、アスファルトの陥没と、普段ではありえない光景、車やベビーカーではスムーズに通れない箇所も多く、その度に近くを歩く地域の方々が手伝ってくださり、無事に北小学校へ到着できたことにとても感謝しています。
 時間を追うごとに、迎えに来た保護者の方から道路や建物の様子、津波のこと、福島第1原子力発電所の不安等を耳にし、私たちの不安はますます大きくなるものの、副園長はじめ、先生たちと一緒に園児全員を無事に保護者の方に引き渡せたことは何よりも嬉しく思いました。
 私の家族が心配して探しに来てくれ、夜中に北小学校内で会うことができました。しかし、携帯電話や運転免許証等を保育園の更衣室に置いたままであったため、車の持ち出しもすぐにはできず、夜が明けて道路の状況が見えるようになってから大熊町の自宅に帰ることを告げ、この時は家族を見送り、朝まで先生方と避難所である小学校に残りました。
 しかしこの後、家族がバラバラになり、避難することになるなんて夢にも思いませんでした。
 校舎内は夜間の冷え込みも厳しく、皆で体を寄せ合い毛布で寒さをしのいですごしました。壁に寄り掛ってウトウトするものの、頻繁に起こる余震で熟睡できず、炊き出しのおにぎりが回ってきても、食欲も気力も起こりませんでした。

 夜が明け、自宅に帰れることを期待していたところ、役場の方から屋内退避するようにとの連絡があり、1時間もしないうちに福島第1原発から半径10㎞圏内から避難するようにとの命令が出され、何がどのようになっているのか、どのようにすればよいのかと頭の中が真っ白になった記憶しか残っていません。
 その後、すぐに役場の方から川俣方面へ移動するようにと連絡が入り、手元の毛布等をまとめましたが、前日、園児をおんぶしながら避難した私は防寒着を着用しておらず、毛布を1枚だけはおり、避難用のバスを待つために移動しました。この時、北小学校に避難していた方の正確な人数は不明ですが、大勢の方がいたことを覚えています。
 避難用のバスが1台到着しても乗車できる人は限られており、積み残された方が次のバスを待つ間、途方にくれて不安が増すばかりでした。この時、昇降口のガラス戸越しに、北小学校の崖下にある道路上に機動隊の青いバスが数台入って来たのが見えました。そして、バスから出て来た人は白い放射線防護服姿で、人々を誘導しているのを見て、今は普通の状況ではないのだということだけが理解できました。
 後になれば、この人たちは過酷な中で大変危険な任務に就いていたのだと理解できましたが、あの時の私には、同じ地域の中に放射線防護服の人と、一方では私たちのような無防備な人のほうが圧倒的に大勢いた状況で、この差は何なのだろうかという思いと、底知れぬ不安感でいっぱいでした。そして、校舎のドアの外へ出ること自体も危険なのかと不安に思えてなりませんでした。

 そんな中、バスを待つより自分の車で避難する人も出てきたので、一人の保育士が保育園まで乗せてもらい、やがて戻ってきたその保育士の車に数名で乗車し、“決死”の思いで保育園へ行きました。私は、気にしていた携帯電話の入った鞄を取ると車へ向かいましたが、その車の持ち主は来ておらず、この時の持ち出しは断念しました。
 私たちは乗り出せた数台の車に分乗し、羽鳥地区から浪江町、大堀地区へ向かいました。亀裂・陥没・隆起を避けながら道路を進むと、すぐ渋滞にはまってしまいました。しかしその際、付近に住む住人の方が道路脇の枯草や土を道路の陥没したところに運んでいました。その方は、その先は道路の陥没がひどくて通行できないというので、車をUターンし、他の道を通ることになりましたが、皆が逃げることに必死でいる中を黙々と他人のために行動されている姿には頭が下がる思いでした。後に、この方も無事に避難されたのか気になって仕方がありませんでした。
 JR双葉駅周辺から国道288号線に向かうとすぐに行き止まりになり、福島第1原発でベント解放の時間と重なり(報道で聞いた)、気が気ではありませんでした。保育園で役員をしてくださっていた方に道案内をしていただき、ようやく国道288号線に入ることができました。
 大熊町から田村市都路町を移動する際、茨城ナンバーのバスが数台連なって来たのとすれ違いましたが、どこへ向かうバスなのか、北小学校で待つ人たちが少しでも早く乗車できればと思いました。私は、何とか無事に川俣南小学校まで辿りついた時、緊張と疲労感から偏頭痛と吐き気を覚えてしまいました。

 震災当日から2年が経過し、避難先で冬晴れの空をふと見上げた時、青空の中に白い雲を目にし、震災前の福島第1原発のきれいな建屋が思い浮かびました。でも、すぐにTVの画面に映っていた壊れた建屋が重なり、思わず自然と涙がこぼれそうになる時があります。
 当時、“赤ちゃん”だった子どもたちも、今では大きく成長したのかと思いをめぐらし、子どもたちの健全な成長を願わずにはいられません。また、未だに起こる余震を感じる度に、「福島第1原子力発電所事故」の1日でも早い終息と安全を願っています。

東日本大震災・福島第一原発事故後2年4か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【2】
まどか保育園の一番長いあの日から…その2

柗本洋子●まどか保育園副園長

【保育通信No.699/2013年7月号】

 2011年の4月に入り、避難した子どもたちも小学校への入学時期を迎えました。複雑な胸中ではありましたが、新年度を迎えるにあたり前向きな気持ちを取り戻そうとしていた矢先、4月8日に福島県を中心とした大きな余震が発生し、震災当日の恐怖をまた思い起こすことがありました。
 この日、私は、埼玉県加須市立騎西小学校の入学式に出席させていただきました。入学式会場である体育館の中には大勢の報道陣がいたことに驚きましたが、それ以上に驚いたのは、新入生の他に、2年生以上の子どもたちの中にも「まどか保育園」を卒園した子どもが大勢いたことです。双葉町の子どもたちは全部で約90名いたように記憶しています。
 報道によると、放射能汚染による風評被害の影響で双葉町の子どもがいじめにあっているという話も聞き、私も微力ではありますが、子どもたちが仲良く楽しい学校生活をすごせるようにと大勢の方に頭を下げさせていただきました。
 入学式当日は、子どもたちをはじめ保護者の方も素敵な洋服に身を包んでいる姿を拝見できて、このような状況下にあるにもかかわらず立派な入学式を挙行いただけるとは夢にも思っていませんでした。この入学式は、私の一生の思い出に残る出来事の一つになったことはいうまでもありません。
 入学式が終了し、その足で双葉町役場がある場所へ出かけました。当日、天皇皇后両陛下が震災見舞いのためにおいでくださり、皇后陛下からお声を掛けていただきましたことも一生の思い出になりました。

 入学式翌日から、私は他県に避難している保育園の園児たちの中で4月から小学校へ入学した子どもたちに証書と記念品を手紙とともに贈らせていただきました。
 その後、園児たちからお礼の手紙や電話をいただき感動を共有することができましたが、時間が経過するとともに大勢の方が避難先を転々とし始め、住所の把握がむずかしくなりました。避難されていた方の体験を聞くかぎり身につまされる話が多く、仕事の都合で家族が離散されたこと、以前東京電力に勤務されていた方の周囲への遠慮など、今まで考えられない話を耳にし、人々の生活の中でも考えられない出来事が起こっていることを実感しました。

 私たちは、毎年8月に日本テレビが放送している「24時間テレビ」へ出演することが決まり、震災復興に向けたイベントづくりの準備に取りかかることになりました。当日は、真夏にもかかわらず寒い雨の一日となりましたが、園児たちと再会することが叶い、大勢の園児たちと一緒に喜びを分かち合う日になりました。
 年が明けた2月、復興を励ます催しということで、「なでしこジャパン」の選手との交流もあり、大勢の方に励まされながら日々を送ることができました。
 



「24時間テレビ」に出演し、みんなで再会を喜んだ

 震災当日から月日が経過し、私たちの頭の片隅には常に「まどか保育園」の再建がありました。私たち家族は、保育園再建に向けて役場関係者と協議を行うために何回も役場に問い合わせをしましたが、遅々として進むことはありませんでした。
 そこで私たちは、自らの手で再建を進めようと考え、群馬県での避難生活をやめて、ひとまず福島県須賀川市に移転することにしました。しかし、須賀川市も思いのほか放射能汚染がひどく、計測した場所で最も高い値が0.97μSvという値を検出するような状態でした。
 私が移転した場所の近所に多くの小学生や中学生が住んでおり、原発が爆発したあの日からずっとそこに住んでいるという状況です。そのうえ、私の住んでいる自宅から100mしか離れていない公園の一部には、除染で集められた盛土が保管されてあり、「危険」という立看板が立っています。そのような場所から3m程度しか離れていない道路は、小学生が登下校の際の集合場所として利用していました。私は心配になり、すぐに小学校の先生に話しました。その結果、集合場所の見直しが行われ、安心しました。

 しかし、放射能汚染の問題に関しては減ることはなく、さらに拡大しています。大勢の方が放射能汚染に関して多くの取り組みをされ、多くの行動を起こされていますが、更に大勢の方の努力が必要な状況であることに変わりありません。放射能汚染を気にしすぎて精神的に怯えて生活することのほうが健康に悪いということも聞かれますが、そんな問題ではありません。時間が経過すればするほど、今の子どもたちの身体に悪影響が出るのではないかと危惧しています。
 私たちは、どこまで避難すれば放射能の影響から逃れることができるのでしょうか。何をもって正しいといえるでしょうか。人類が経験したことのない事態が起きているのに、誰が安全を保障できるのでしょうか。
 現在、福島県をはじめ日本の多くの方が放射能汚染の影響により苦しめられています。子どもたちが元気いっぱいに外で駆け回り、泥んこ遊びを思う存分味わう喜びを奪われ、首から線量計をぶら下げている姿は痛々しいとしか表現できません。
 今、私の唯一の楽しみは、保育園に通っていた園児たちへ手紙と心ばかりの思い出の品をプレゼントすることです。1日でも早い保育園の再建に向けての足掛かりとなる努力をして、もう一度みんなと再会が果たせる日々が来ることを願うばかりです。
 最後になりましたが、この2年間、大勢の方のお力や素晴らしい出会いに感謝の心でいっぱいです。本当にありがとうございました。今後とも、子どもたちの幸せのために尽くしていきたいと願うばかりです。

3.11以降、手つかずの状態の「まどか保育園」

東日本大震災・福島第一原発事故後2年3か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【1】
まどか保育園の一番長いあの日から…その1
柗本洋子●まどか保育園副園長

【保育通信No.698/2013年6月号】

 2011年3月11日、大震災当日の午前中までは、あたたかな春の訪れを感じる日であったと記憶しています。
 保育園に隣接している正福寺の境内には、3月の誕生日を迎えた園児たちの誕生日会を催すため、園児たちの声が響きわたっていました。そして、お別れ会も兼ね、園児たちも子どもながらに寂しさと華やいだ心でいたと思えます。
 楽しいお誕生日会、マジックショー、職員が翌日出場予定であったNHKのど自慢大会出場のためのリハーサル、おいしい給食がふるまわれ、とても幸せな一時であり、今振り返ると最高の思い出でした。
 3月11日午後2時46分、得体の知れない地響きとともに大地が揺れ始め、徐々に大きな揺れに変わり、保育園の中は園児の叫び声や職員が指示する声、さまざまな声が入り乱れ、家具が倒れ、一瞬にして混乱の渦に変わりました。皆、この揺れが早くおさまってほしいと願い続けたことでしょう。

 数分後、徐々に揺れもおさまり、園長、副園長の指示により園児たちは園庭に集合しました。その時、私が目にした光景は、先ほどまでの穏やかな時の流れの中にいたとはとても信じられない変わり果てた光景でした。
 園児たちの可愛い声の余韻が微塵も感じられない光景となり、お寺の壁が崩れて骨組みが露わになり、本堂を引っ張っている鉄製のロープが切れ、何かと接触している音がギシギシと園舎にも聞こえてくるほどでした。鐘楼堂は崩れ落ち、墓石も散乱し、地割れも酷く、すぐにでもお寺の本堂が倒壊するような有様でした。
 そんな中、近隣の多くの方が助けに来てくださったことに今でも感謝しております。

 徐々に地震がおさまると同時に、急に天候が変わり始め、雪や雹が降り始めました。私はとっさに園児に防寒着を着せ、園児の身体に落下物が直接当たらないように布団やビニールシートを園児の頭の上に掛けることに追われていました。
 そうこうするうちに津波警報が鳴り、高台の小学校へ避難することを決断しました。
 年長組の子どもが年少組の子どもの手を引き、物が散乱した危険な道を必死に逃げる姿を見届け、私は保育園とお寺の対応を園長に頼み、小学校へ避難しました。
 小学校に到着し、学校の様子を見回りました。園児たちは大勢の方と一緒の大きな部屋へ避難していました。保育園に実習に来たことのある近くの病院の看護学生も一緒だったので、子ども一人ひとりについていただきました。また、知人からは飴を分けていただき、少しだけ安心したことを覚えていますが、その後断続的に大きな余震が続き、上の階へ避難することができないと考え、大勢の方が狭い室内に閉じ込められている1階に避難せざるをえない状況でした。
 小学校は耐震設計がされて安全であることはわかっていても、余震が起きる度に悲鳴があがるような状況下でしたが、徐々に子どもたちを保護者へ戻すことができました。保護者の中にはミルクやおむつを持ってきてくださる方もいて、園児たちや私たちもとても助かりました。
 数時間が経過すると、徐々に冷静な気持ちを取り戻したのでしょうか。私は保育園から避難する際に園舎のドアを開けっ放しにしていたので戸締りをしなくてはいけないと思い、息子と一緒に園の様子を見に戻ったり、小学校での炊き出し、けが人の搬送、食事の配給等の手伝いをするなど、とても長い一日で、その日は眠りにつくこともできませんでした。

 小学校に残っていた保育士へ自宅に戻るように促していたところ、園長が慌ただしく駆け込んで来て、「福島第一原発の半径3㎞もしくは10㎞圏内にいる人は避難するように!保育園に戻ってはいけない!」という叫び声が聞こえましたが、どのような理由があって叫んでいるのか瞬間的に理解することができませんでした。
 間もなく小学校の校内放送で、町役場が要請した避難用のバスで避難するか、自家用車で避難可能な方は福島市方面へ避難するようにとの指示があり、私も自家用車で双葉町を後にすることになりました。
 車中のラジオ放送からは涙声が漏れ始め、「地震と津波で受けた被害により、福島第一原発の原子炉建屋が爆発した。放射能が一斉に拡散するのではないか」という内容の放送を聞きました。
 私は気が動転して、何が起き、一体どうなっているのかわかりませんでしたが、その後、福島第一原発が水素爆発を起こして建屋が崩壊し、放射能漏れによるための避難であることが理解できました。
 避難するにあたり、原発から半径10㎞にも及ぶ避難対象地域の方々が一斉に避難を行う訳ですから、車は大渋滞でまったく動きません。車内では緊張のためか喉も乾き、飲み物がほしくなりました。幸いにも避難途中に保育園の職員と会うことができ、水を分けていただきました。道路のあちこちで、避難されている大勢の方どうしが何かしらの物と交換されている光景が見られました。
 数時間かけて「避難所」と書かれている小学校に到着し、睡眠をとることができましたが、段ボールを使って寝ることになり、体の疲れが抜けることはありませんでした。でも、大勢の方も一緒におられたため、安心感に包まれておりました。

 しかし3月15日、この状況が一変する出来事が再び起きました。避難距離が半径20㎞に拡大されたのです。この避難所から更に遠い場所への避難を余儀なくされる事態となったことは、いうまでもありません。
 その際、避難所の校長から説明があり、「避難用の大型バスが順次到着するので、乗車して避難してください」とのこと。また、40歳未満の方にはヨウ素剤を配布するので服用するように、との指示もありました。
 その後、私は会津方面に避難することになりましたが、避難所で家族と合流するのを希望していた2名の職員がいて、息子も職員のことを気にやんで一緒に残ることを決意。後ろ髪を引かれる思いとともに、放射能の恐怖に駆られながらの避難であったと記憶しています。
 私はようやく会津に到着し、市内のホテルに宿泊することができ、久しぶりの湯船に体を委ねることができました。しかし、息子たちの身を案じると身につまされる思いでいました。

 会津到着から2日後、私たちは更に遠方への避難を考え、群馬県にいる兄の空き家があることを思い出して連絡したところ、「すぐに来なさい」との返事があり、兄は雪道の中、車で会津まで迎えに来てくれました。
 その後、私たちは群馬県高崎市に向かい、一時的な避難場所と考えて住むことになりましたが、まさか、これから約2年もの間、この地に住むことになるとは夢にも思いませんでした。

 3月11日からしばらく経過し、福島県双葉町の大勢の方々が埼玉県さいたま市のさいたまスーパーアリーナに移動したことを知り、すぐに駆けつけました。スーパーアリーナには保育園やお寺の関係者等、知り合いの方が大勢いて、震災当日からどのようなことが起きたのか等、いろいろな話をすることができ、貴重な時間をすごすことができました。そして、その日から1日おきにここへ通い、大勢のボランティアの方々と避難生活をされている方のお手伝いをさせていただきました。
 その後、保育園の満了式を執り行っていないこともあり、双葉町役場の方と相談し、スーパーアリーナの中でミニ満了式を開催することになりました。他の地域へ避難されている園児たちにも声を掛けて集まっていただき、ボランティアの方々にもお手伝いいただき、厳かではありますが満了式を執り行うことができました。
 今でも忘れられないのは、いつも元気よく歌っていた園歌を誰一人として声がつまって歌うことができなかったことです。またみんなで再会したいという思いで胸がいっぱいになりました。
 その後、園長と職員たちの今後の処遇に関して、このような状態では休園せざるをえない、やむなく退職をお願いするに至りました。しかし、さまざまな手続きを行うにしても保育園に残していた書類が必要ということで、息子がすでに避難地域に指定されている保育園に命懸けで戻り、書類や印鑑を取りに行く事態が起こりました。行政は、一体このような事態をどのように考えているのか、理解に苦しみました。しばらくすると、双葉町役場を埼玉県加須市の旧埼玉県立騎西高校に移すことになり、何かある度に通い続けることになりました。
 

さいたまスーパーアリーナで行った満了式


東日本大震災・福島第一原発事故後1年11か月
今、福島県の保育は…その3
◆福島県伊達市・霊山三育保育園の現状◆

【保育通信No.694/2013年2月号】

 東日本大震災が起きてから二度目の新年を迎えました。しかし、未だに32万人を超える方々が避難生活を送られています。
 震災後は全国の保育関係者の皆様方から心あたたまるお言葉や物資、そして、救援金等を頂戴しまして、心より厚く御礼申し上げます。お陰様で元気と勇気が湧き、保育士とともに子どもたちの成長を支えて参ることができました。また、一人ではないということを実感し、人々の絆を深く感じました。
 本当にありがとうございました。
 地域の中では民家の放射能除染作業が始まり、美しく咲き誇っていた花々が消えてしまい、まるで粘土でつくられた「箱庭のような環境」に見えてしょうがありません。園舎を取り巻く環境は自然がいっぱいで四季折々に楽しむことができていた、あの時のことがとても懐かしく思う毎日です

 昨年は、「福島復興元年」…と称し、一人ひとりが前向きに歩み始めました。保育園の放射能線量は下がってきていますが、まだまだ平均値にはなっておらず、戸外活動は制限しています。入れ替えをしたブランコや鉄棒に向かって走り出していく子どもたちの姿に、涙がこぼれてきます。今まで遊べなかった反動のエネルギーがこみあがっているように見えました。
 砂場遊びや松ぼっくり造形、どんぐり拾い等、感性を育てる遊びができない悲しみは大きいものがあります。 昨年の春、3歳児の担任が子どもたちと一緒に「オタマジャクシを育てたいですね」と話しました。普段であれば何も考えず、近くの田んぼへ出かけてオタマジャクシを取ってきたものですが、線量のこと、水質のことを考え、「やめましょう」と保育を制限してしまい、とっても悲しいことでした。
 給食で使用する食材に関する放射能検査については、毎日書類を作成し、明日使う材料をお昼前までに地域の役所に届けて担当の方に測っていただき、結果を取りに行くことを昨年4月から実施しています。検査結果はすべて「検出せず」となりますが、現在もこのような検査を継続している状況に変わりありません。
 遊びもそうですが、いつまでこのような環境が続くのか、人のせいにしてはいけないと思いながらも、目に見えない「放射能」を考えずにはいられません。

 古典の言葉に、
 「1年計画ならば穀物を植えるのがいい。
  10年計画ならば樹木を植えるのがいい。
  終身計画ならば人を育てるのに及ぶものがない」
とあります。
 激動期を迎えた保育界、こういう時こそ保育の原点に立ち戻り、「子ども尊重」、「人間尊重」の保育を意識して、私たち保育者は取り組みます。
 また、東日本大震災でお亡くなりになった方々への慰霊、鎮魂の礼を忘れることなく、未曽有の災害のことを子どもたちに語り継いでいくこと、そして、子どもたちが「明るく、やさしく、あたたかく」成長していくように尽くすことに努力してゆきます。
 子どもたちの数も減ってきている中、追い打ちを与えるように今後の保育制度も変化し、保育園の運営についても心配は募りますが、今、考えていることは、「砂場を屋内にしたい」ということ。このことが実現できるように地域に働きかけ、貢献してゆきたいと思います。
 今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

齋藤厚子/福島県伊達市・霊山三育保育園園長

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