公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

まどか保育園の現在まで【5】東日本大震災~あの日・あの時

東日本大震災・福島第一原発事故後2年7か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【5】
東日本大震災~あの日・あの時

【保育通信No.702/2013年10月号】

◆心はあの日から止まったまま
昨年娘を出産しました。親馬鹿ではありますが、可愛さがましてきた今日この頃です。長女もあれから2年が過ぎ、今年で4歳になります。日々すくすくと成長する2人の娘の笑顔を見ては安らぎ、親であることを実感しています。
3月11日の震災当日は、満了式を前に思い出づくりを始めたところでした。今まで引越しなどで途中退園し、お別れした友だちに絵を描いて、思い出としてプレゼントをしていたこともあり、クラス全員が一人ひとりの絵を描いてプレゼントしようと始めていた時でした。
おやつの時間も近づき、今日は片づけて続きはまた後でと声掛けをした直後に地震が起こりました。過去に経験したことのない揺れ、何かが違うと感じ、直ちに園児たちを机下に避難させ、トイレへ行こうと保育室から出た数名の子どもの安全確認を行い、子どもたちを机下に避難させましたが揺れは激しくなり、棚上に重ねておいた1年間の子どもたちの絵画作品が崩れ落ち、棚が傾き、子どもたちに危険のないように激しく揺れる棚を押えながら早く揺れがおさまってと願い、子どもたちと早く安全な場所に避難しなければと考えるだけで精いっぱいでした。北小学校へ避難する時も道路の陥没や落下物に注意しながら子どもたちを安全に誘導し、無事、保護者に戻さなければという気持ちでいっぱいでした。
今振り返ってみると、あのような状況下で子どもたちが誰一人として怪我をすることなく保護者に戻すことができたのは奇跡ではないかと感じています。わが子も幼いながら何かを感じていたのか、抱っこをやめるとすぐ起きて泣きの繰り返しで、娘を抱っこしながら主人、父とすごしていました。
その後、原発事故が起こり、すぐに私の実家である原町へ一旦は避難したものの、娘を守りたい一心で、安全だといわれる場所を探して避難を続けました。
原発事故がなければ、現在も地元で娘たちと一緒に生活をしていたことでしょう。祖父母にも娘の成長をまじかで見せることができたのに、あの日常の生活すべてが奪われ、いかに自分が無力であるか、悲しさ、悔しさを抱えながら時間ばかりが過ぎています。震災当日から別の場所で別の生活を続けていますが、私の心はあの日から止まったままです。今、私たち家族は埼玉県戸田市に居住していますが、まどか保育園のカリキュラムを思うと素晴らしい内容であったことを実感しています。
震災以前の暮らしに戻すことはできませんが、少しでも安全と思える場所での生活を選択しなければならないのが現実です。まどか保育園のパイン組だった子どもたちもあっという間に小学校3年生です。皆さんが避難先でご苦労をされながらも元気で生活されることを切に願うばかりです。子どもたちの笑顔を守りながら。

(酒井有佳里/保育士)

◆また保育の仕事に携わりたい
地震が起きた時、メロン組の子どもたちは午睡が終わり着替えをしている時間でした。私は布団を片づけている途中で大きな揺れを感じ、急いで部屋に戻ると子どもたちは皆、自主的に机下に隠れていました。日頃の避難訓練がいざという時にいかせたという思いでした。
その後、北小学校に避難する時、メロン組は3分の1くらいの子どもがまだ残っており一緒に避難しましたが、小学校へ遊びに行ったと勘違いした子もいて、ふざけないようにするのに必死でした。保護者のお迎えが遅かった子どもたちは、その当時の記憶がはっきりしないというような話も聞きました。
地震がなければ当たり前のように働き、地元の大勢の方と接することができていたのに、避難先では知り合いも少なく、身内とのかかわりばかりになってしまい、寂しい気持ちです。また、今まで保育をしてきた子どもたちの近況等も聞くことができなくなったのも寂しく思います。私は今、子育てに専念していますが、育児が落ち着いたらまた保育の仕事に携わりたいと思っています。

(猪狩 香/保育士)

◆埼玉県での避難生活を始めることに
地震が起きた時、私は乳児棟で0歳児の午睡後の対応を他の保育士と行っていました。突然轟音と大きな揺れが起こり、身体が倒れそうになったことを覚えています。とっさに窓を開け、寝ている子どもたちのところへ戻った直後、1歳の女児が泣きながら開いている窓から飛びだそうとしており、すぐに駆け寄り飛び出さないようにしてから他の保育士と一緒に再び寝ている子どもたちのところに戻り、子どもの上に両手を広げて覆いかぶさるような姿勢で地震がおさまるのを待っていました。しかし揺れは更に激しくなり、寝ている子どもたちの近くにあったベビーベッドがぶつかり合いながらギシギシと音を立て、今にも目の前に迫ってくるような勢いでした。
両手を広げ被さっている身体は左右に大きく揺れ、ベビーベッドの様子を見ながらもどうすることもできない無力さに、家具等が「子どもたちのところに来ないで」と必死に祈りながら、自分の身の安全を確保することで精いっぱいだったように記憶しています。
しばらくすると大きな揺れも徐々におさまり、幸いにも子どもたちに怪我はなく、揺れがおさまりました。と同時に窓から子どもたちを散歩車に移し、玄関前の広場に避難し、保護者のお迎えを待っていました。当日は午後から寒さが厳しく雪もやみぞれが降り始めたこともあり、子どもたちの衣類を取りに園に戻ると、園舎内の冷蔵庫は前後に動いてその上にあった電子レンジはコード1本で吊られているように落下寸前の状況でした。
やがて警察、消防団の方が来られ、心強く感じたことを覚えています。その後、近くの小学校へ避難するように指示があり、すべての保育士が園児を誘導し避難しました。私は他の保育士と一緒に散歩車に園児を乗せ、小学校に向かいました。小学校に通じる道路は避難する車ですごい渋滞だったと記憶しています。避難をしている最中、私の脳裏にふと思い浮かんだのは原発のことでした。近隣の方からの噂として、原発はマグニチュード6.5以上の揺れには耐えられないのではないかと聞かされていました。近くの歩道は陥没箇所が多数あり、その都度散歩車を止めて状況確認を行いながらの避難でした。
当日は深夜になっても大勢の方が校庭に出ており、その中には乳幼児や小中学生もいました。教室内では身体を横にできる場所も少なく、体育座りをされている方がほとんどでした。午後10時過ぎ、誰かが「換気扇がついているから切ったほうがいい」ということで、すぐに切られたのを思い出しましたが、なぜそういわれるのか、その時はまったくもってわかりませんでした。しかし、じつはその時、すでに原発の原子炉がメルトダウンを起こしていたことを後で知りました。
その後、私は埼玉県での避難生活を始めることになってしまいました。今、私は自宅から車で30分かかる群馬県の保育園に勤務しています。辛い気持ちを抱えながらの生活ではありますが、そのような中でも僅かな希望をもちながら、日々の生活を大切にすごしています。
まどか保育園では大変お世話になりました。そして皆様に出会えたことに心より感謝申し上げます。第2のまどか保育園設立を心よりお祈り申し上げます。そして皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。またいつの日かお目にかかれることができたなら幸せに思います。本当にありがとうございました。私も頑張ります。

(半谷孝子/保育士)