公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

全私保連*東日本大震災岩手県被災地視察報告
「忘れられていなかったことにとても安心しました」

【保育通信No.694/2013年2月号】

 2011年3月11日に起こった東日本大震災で甚大な被害を東北地方は受けました。被災県の一つ岩手県でも、津波よる被害は全私保連加盟園でも全半壊を含めて9園に上ります。
 これら被災園の復興への取り組みの喚起と激励の意も込めて、昨年10月29日〜30日、伊藤全私保連副会長をはじめ、総務組織部2名、広報部2名で岩手県を訪問し、連盟に寄せられた救援金を、地元・岩手県私立保育園連盟の協力を得ながら9園中8園に手渡して来ました。当日は、岩手県私保連の佐々木会長と遠藤副会長に案内をしていただきました。
 私個人としては、震災以降初めての訪問で、状況や様子などはメディアや記事からしか得ていませんでしたが、甚大な被害であったことと、その後の復興があまり進んでいないということは間接的に認識をしていました。ただ、すでに1年7か月以上経過しているという「時間の流れ」がある中で、「これくらいは成されているだろう」という根拠のない漠然としたものは頭の中で思い描いていました。


被災当時のままの陸前高田市役所庁舎

 

1 陸前高田市を訪問して
 JR花巻駅から最初に、陸前高田市へ向かいました。同地には訪問園である竹駒保育園、広田保育園があります。両園とも園舎そのものは残っていますが、津波による浸水で継続的な建物の使用が困難となったため、園舎の建て替えを余儀なくされていました。
 現在、竹駒保育園は100m程離れた高台にある公民館で保育を行っていて、山側500m位離れた場所に新園舎を平成25年度開園に向けて建設中であり、広田保育園は今も被災園舎で保育を行っていますが、高台への移転を予定しているとのことでした。
 また、竹駒保育園から広田保育園へ向かう途中で震災当時の陸前高田市役所を訪れました。市役所まであと少しの所まで来た時、「以前、この地域は1万人以上が住む街でした」といわれたその先は、一面雑草が生えた家の基礎部分だけが残された光景しかありません。確かに瓦礫等はきれいに片づけられていましたが、とてもそこにそれだけの街が存在していたとは到底思えない風景に唖然とするばかりでした。そして、それを上回る衝撃を受けたのが被災当時のままの市役所庁舎。規制線が張られた入口にはたくさんの千羽鶴が飾られ、その奥には無数の瓦礫と突っ込んだままの自動車、3階まですべて割れた窓ガラス。まさに“呆然”という言葉そのままに立ち尽くしてしまいました。

2 釜石市を訪問して
 釜石市の訪問園は釜石保育園、鵜住居保育園です。両園とも、津波により全壊となってしまい、釜石保育園は少子化の影響で廃園となった幼稚園を借りて、鵜住居保育園は集会所を借りて保育を行っています。
 新園舎について、釜石保育園は公設民営のため市の方と協議をしながら進めており、平成26年4月の開設を目指して、鵜住居保育園は卒園式を何とか新園舎で行いたいとの思いから、25年3月の開設を目指してそれぞれ取り組んでいるとのことでした。


廃園となった幼稚園を借りて保育中の釜石保育園


3 大槌町を訪問して
 続いて、この日最後の訪問地の大槌町に向かいました。同町は津波以外に火災よる被害も大きかったところです。釜石から大槌に向かう途中に限って目にしたわけではなく、具体的な数字を挙げることもむずかしいのですが、本当に多くの仮設住宅を見るにつけ、さまざまな壁があり、そこから抜け出せない事情があるのだろうことは想像に難くありませんでした。
 さて、向かった地にあるのは大槌保育園です。同園は津波による浸水のため新園舎の建設を予定していますが、被災した元の園を活用したリニューアルの形で平成25年4月の再開を目指しているそうです。現在は別の地に建てられた仮設園舎で23年6月より保育を行っています。同園訪問の際に伺ったお話の中で、地価の高騰が挙げられていました。同園仮設園舎周辺の地価は震災以前より約10倍となり、同様の現象が被災各地に起こっているそうです。
 そして、同園は震災以前は本連盟の会員園ではなかったのですが、会員の有無にかかわらない本連盟の支援に対して感謝の意を述べられるとともに、「忘れられていなかったことにとても安心しました」とも話されていました。

4 山田町を訪問して
 宿泊地である釜石市を後に、山田町に向かいました。山田町は、前日に訪れた大槌町と同様に津波と火災の被害を受けた町です。山田町では、わかき保育園、大沢保育園、山田町第一保育所の3園を訪れました。
 2日目最初の訪問園、わかき保育園は津波により園舎が流されてしまいましたが、今回その跡地を唯一見ることができた園で、不謹慎を承知で表現させていただくなら「きれいさっぱり」に園舎は流され、門に刻まれた園名で、ここに保育園があったのだとわかる状態でした。現在は園舎裏手にある山の麓の廃屋となったホテルで保育を行い、平成25年4月の再開に向けて別の地に新園舎の建築を予定していました。
 続いて訪れた大沢保育園は、津波による被害は浸水にとどまりましたが、地盤沈下による園舎の傾きや元々の耐震性の関係から、25年2月の完成を目指して園舎の建て替えを予定しており、従前の場所で現在工事を行っていました。保育は、園舎のすぐ裏手の高台にある旧小学校を借りて行っていました。なお、同園理事長先生の奥様とご息女様は津波により亡くなられたとのことでした。
 次は、今回最後の訪問園、山田町第一保育所。今回の救援金は津波により破損した石垣を補修するために、ですが、床上浸水した園舎で現在も保育を行っており、いずれは建て替えも視野に入れているということでした。



旧小学校を借りて保育中の大沢保育園

***

 冒頭に頭の中で描いた根拠のない復興は、現実をこの目で見てこの耳で聞いて、見事に裏切られました。補助金の使われ方や被災された方々の考え方の違いから生じる遅れが存在することは承知をしていました。しかし、それを差し引いても、まるで時計の針が何倍もの遅さで進んでいるかのような現地の状況に、「復興をリードするはずの政治家の皆さんは、いったい何をしているのだろう」と、選挙のために離合集散している姿を冷めた目で見てしまいます。
 ただ、どのような状況であろうと、現実を進んでいかなければならない現地の方の前を向いて歩んでいる姿には頭が下がる思いです。心に負った傷は簡単に癒せないと思うのですが、訪問させていただいたどの園の職員の方も、子どもたちも、とても良い笑顔でした。そして、どの園でも共通して「全私保連をはじめ、全国の多くの人たちが物心両面で支援をしてくださった。心から感謝している」とおっしゃっていました。
 被災地といわれているすべての地域と、被災された方々に継続的な支援を続けていくのは当然ですが、その状況を全国に伝えていくことも大切なのではないか、と強く思いました。
 最後に、公の誌面で個人の感情を載せることにお叱りを受けるかもしれませんが、一言いわせてください。
 「みなさんのことは、忘れていないですよ!」

(片岡敬樹/全私保連広報部)


門に刻まれた「わかき保育園」という文字…

全私保連調査部*岩手県山田町ヒアリング報告
想定外を想定する…その時守るべきものは何か

【保育通信No.692/2012年12月号】

■その日から保育園は避難所になった豊間根保育園の記録

 豊間根保育園は岩手県下閉伊郡山田町にあり、海岸から約10㎞離れた場所に建っています。保育園の隣には山田町役場の支所や中学校などがあります。
 3・11の震災発生と同時に停電となりました。携帯電話も通じなくなり、各種情報から途絶された状況となりました。15時20分過ぎに沿岸部を大津波が襲いましたが、そのことも同園では知ることがありませんでした。その後、沿岸部へ通じる道路が通行止めになり、保育園隣に位置する町役場支所へ行き場を失った車が次々と入ってきました。町役場本体が津波の影響を受けたため、この支所が災害対策本部として機能していくこととなりました。
 時間の経過とともに支所に避難してくる人々が多くなり、支所だけで対応することが困難となったため、園長の判断により子どものいる家庭の避難を優先的に受け入れることとしました。この時、地震の発生から3時間が経過していました。
 夜になり、津波の後に火災が発生すると、避難してくる人の数はどんどん増えていきました。また、避難者からもたらされる情報により、沿岸部の惨状が段々とわかってきました。この時から豊間根保育園は被災を免れた数少ない保育園としての役割と、避難所としての役割の両方を担っていくこととなります。
 11日夜から園内は避難してきた人々であふれていました。「保育園というよりは避難所だった」と当時を園長は振り返っています。停電は依然として続いていましたが、ガスと水道が使用できていたため、貴重な避難所として機能していました。

 
このような状況では避難車は使えない!!

 しかしその一方で、街中の保育園はほぼすべてが被災していたため、豊間根保育園の早い再開が求められていました。子どもを預け行方不明の家族を探しに行きたい方や、流された家の様子を見に行きたい方など、一時保育のニーズは増える一方でした。
 本来は山田町から避難所の運営のために人が派遣されるはずでしたが、民間立の保育園ということで、その運営はすべて施設側に任されていました。食料等の物資が乏しく、園にあったお米や乾麺などを分け合いながら当座をしのぐ状態でした。その後、避難所に指定され、震災発生3日目から物資が次々に運び込まれるようになりました。
 沿岸部から離れているという地理的な要因もあり、豊間根保育園に通う園児たちの家は比較的無事だったため、在園児のご家庭自らが登園の自粛を申し出てくれました。そのため一時保育のニーズに応えることができ、一時保育保育料は役場と相談し、無償で行うこととなりました。

 ピーク時には70名を超す方々が避難してきたため、施設の使い方など保育園と避難者とで幾度となく話し合いがもたれました。避難者の中には家を流された職員がおり、その職員が中心となって避難所の運営を行いました。このことにより、他の職員の負担は大きく減ることとなります。また、法人内の他施設で働く看護師が避難者の心身のケアを担当することとなりました。
 震災後、職員を解雇せざるを得ない施設もありましが、豊間根保育園を運営する社会福祉法人三心会では、職員全員の継続雇用を理事長以下、施設長の判断で決めました。家や車が流され避難生活を余儀なくされた職員もいましたが、働く場所と定期的な収入があることで、前向きに日々を送ることができました。

 施設における地震の被害は、天井のパネルが剥がれる程度の軽微なものでしたが、たまたま休暇を取得していた職員が津波にさらわれてしまいました。
 安否確認のため園長は方々を探しましたが見つけることができず、震災後3日目に自宅周辺を捜索していた消防団の手により遺体が発見されました。園長とは遺体安置所での対面となりました。


たくさんの励ましをいただいた保育士派遣事業


 送電が復旧するまでの6日間は、日の出とともに起き、日没とともに寝る生活でした。ローソクは余震で転倒することもあったため使用できず、僅かな懐中電灯とパソコンのバックライトで足元を照らす必要がありました。暗く寒さも厳しかったため、夜の長さが心身にこたえる日々でした。園にある布団に包まり寒さをしのぎましたが、学校のカーテンに身を包む避難者もいました。
 もともと子どもが1日の生活をすごす機能が園に備わっていたため、避難所として必要なものは、ほぼすべてそろっていました。4月以降、札幌や東京からボランティアの保育士が常時、支援に滞在してくれることとなりました。このことが職員や避難者たちの大きな心の支えとなったのです。
 園の職員たちは、子どもたちに明るく接してきたつもりでしたが、支援で来てくれた外部の保育士さんたちとのかかわりの中で、子どもたちが元気になっていくのが感じられました。子どもたちが職員に「先生、大丈夫?」と声をかけてくることもあり、子どもたちなりに職員に気を使っていたように思います。今後の生活のことや家族のことなど、心配することがたくさんあり、心身ともに疲れていたことに子どもたちが気がづいていたのでしょう。その反面、支援で来てくれる外部の保育士さんたちは、被災している子どもの背景を知らない分、元気に子どもに接することができたのではないでしょうか。被災地の保育士よりも、外部の保育士は明らかに心が健康だったと感じます。そのところに子どもたちも惹かれたのでしょう。
 支援の保育士さんは定期的に交代で豊間根入りしてくれていましたが、次はどんな人が来てくれるのだろうと、子どもたちは楽しみにしていました。支援の保育士の派遣があったからこそ、豊間根の保育士たちは仮設住宅の引越しや、日々の片づけなどに取り組むことができ、非常に有効な支援であったと思われます。



地域の郷土芸能『虎舞』を練習中の園児達


 仮設住宅の建築が進み、被災した方々が入居することにより、6月末に豊間根保育園は避難所としての役目を閉じました。3・11以降、『疲れたと』感じる間がないほど職員一同、全力で走り続けました。そんな中、物資を送ってくださる方々や、保育士の派遣など、助けてくれる人がいるということが心の支えとなりました。自分たちのことを思い、心配してくれる人の存在が何よりもありがたく感じます。
 豊間根は高台にあるため震災以降、引っ越してくる方々が増えました。24年度からは仮設住宅を回る出前保育事業を始めました。これからも復興の足がかりとして、地域の子育てに貢献したいと考えています。

 (丸山 純/全私保連調査部)

■まとめ

  今回大きな被害を受けた被災地である岩手県山田町の状況を伺うことで、我々調査部が『東日本大震災アンケート[関東エリア版]』から導き出した4つの課題提起は概ね的を射ていたように思います。しかしながら、わずかな環境の違いから一方で被災者(被災園)となり、また一方で避難所の運営に至る経緯を伺うと、子どもたちの命を守る使命を果たすには、どんな状況におかれても適切な判断を下せる視野の広さが私たち保育園に求められ、また必須の能力なのだと感じました。そして、『想定外を少なくする努力』と『想定外を想定する訓練』を日々行う必要性を実感しました。

 今回の被災地現地調査にご協力いただいた社会福祉法人三心会、ならびに同法人の運営する山田第一保育所、豊間根保育園、織笠保育園の皆様に心より感謝し、被災地の一刻も早い復興を祈念しこの報告のまとめと致します。
*掲載の写真は、山田町第一保育所からいただきました。

全私保連調査部*岩手県山田町ヒアリング報告
想定外を想定する…その時守るべきものは何か

【保育通信No.692/2012年12月号】

1 山田町第一保育所を訪問して

 昨年発生した東日本大震災に際し、全私保連調査部では今回の震災がもたらした被害の状況や直面させられた課題について、災害弱者といわれる乳幼児が日々をすごす場としての保育園に及んだ影響の度合いや突きつけられた課題の大きさをしっかり検証していくための調査活動が必要であろうとの視点から、保育園への地震による直接の被害・損壊や人的被害の程度の状況や生活環境(インフラ等)に及んだ災害の程度と、その後の生活維持への被害や影響がどのように及んだかなどに関する調査を行いました(参照/平成24年3月15日発行・『東日本大震災関連アンケート[関東エリア版]』[本誌3月号付録])。
 この調査エリアを決める際に、震源に近く被害の大きかった岩手県、宮城県、福島県では地震の揺れの大きさもさることながら津波や原発等各々の園で被った影響の差が大きく、定性的な傾向を掴むためには関東エリアを調査対象に限定するとした経緯がありました。
 『東日本大震災関連アンケート[関東エリア版]』からは、次の7つの考察を得ました。

① 震災の大きさに比して直接的な被害は比較的軽度だった。
② 日頃の避難訓練や緊急時マニュアルの有効性を確認。
③ 災害発生時の園児の居場所がその後の対応に大きく影響する。
④ 揺れがおさまった後の園の対応は園の位置する環境により2極化した(ほぼ通常通りと翌日まで開所)。
⑤ 今の社会で便利なツールである携帯電話とインターネットが地震直後使えない。
⑥ 園舎の施設など被害がなくても、インフラ(水・ガス・電気)の不通により保育ができなくなる。
⑦ 地震による被害が軽度でも、その後の放射線量の上昇で食材の確保と品質の不安、散歩や外遊びへの不安とそのことによる保護者対応が必要。

 この考察をもとに、今後我々が取り組むべき4つの課題が見てきました。
① 園の地域特性を考慮した避難訓練・マニュアルの見直し。
② 子どものことを優先すれば被災後即地域の避難所へ移動ではなく、可能な限り慣れた保育園ですごすことを前提とした環境づくり・備品の確保 
③ 地域における乳幼児の避難所としての立場を想定し、地域の防災拠点として備える必要性
④ 災害時に互いに助け合い支援力を生み出せるネットワークづくり 

 この4点を課題提起として、「東日本大震災関連アンケート調査」のまとめとしました。
 そして我々は、災害時における保育園の対応に関し、備品等を事前に備えるというレベルの対策は容易にイメージできるが、緊急時にあらゆる面から追い込まれた状況の中で行う避難の方針を下す過程を浮き彫りにすることで、園長・主任もしくは園全体の判断力向上の対策にすることはできないのか、また、我々の提起がどれだけ実効性があるものかを検証する目的で、被災地で厳しい現実を向き合った岩手県山田町の2つの園(社会福祉法人三心会が運営する山田町第一保育所と豊間根保育園/この2園は、昨年4月に全私保連でも訪問しており、当時の状況は本誌で報告されている)を訪問しました。
 この2園は同じ町にありながら、立地の違いにより津波に被災し保育の休止を余儀なくされ、復旧を目指した園(山田町第一保育所)と、高台にあり施設が無事だったことから、保育を行いながらも地域の避難所として被災者を受け入れを行う園(豊間根保育園)は地形を見てわかるように、当時の状況が分かれました(図1参照)。



図1 社会福祉法人三心会が運営する3園の場所
 



図2 岩手県山田町の位置


(社福)三心会が運営する3園の場所は図1の通り。正確な標高はわからないが、どの園も最寄駅から近く、その駅の標高から織笠保育園(織笠駅:4.6m)、山田町第一保育所(陸中山田駅:2.8m)、豊間根保育園(豊間根駅:32.1m)。海岸からの距離と標高からわかるように山田町第一保育所と織笠保育園は津波の被害に遭遇し、豊間根保育園は(海岸線からは約10km)は津波による被害はなく、震災直後から避難所となった。

 1 山田町第一保育所の当時から今日までの様子から学ぶべきこと

 山田町第一保育所の阿部所長、佐藤事務長のお二方のお話を伺いました。大地震から始まる津波、火災、復旧等での保育園としての対処について非常に適切な判断のもと行動され、被害も最小限に押さえられているように感じました。しかしながら、父親が迎えに来て降園した姉妹の園児2人が、その後父親とともに津波にのまれて亡くなったことを悔やみ、『保護者に返すべきではなかった』と振り返るお二方の様子を見ると、誰の責任であるかは問題ではなく、園児とその保護者の命を守れなかった現実に目を向けることで、今後の防災、危機管理への考え方を変えて行かなければならないと感じました。
 あの3・11の当日、結果として大事に至らなくても東日本の各地で園児を保護者に引き渡した時点で園の責任を果たしたと考えた方も少なくないと思います。日常的には園児と保護者の安全を降園後まで考えることはしないと思いますが、3・11の大震災の日は降園後の安全まで配慮をしなければならない状況でした。
 阿部所長が当時を振り返り、今後の防災対策、危機管理には、どんなことが起こっても想定外を言い訳にしないで最善の対処法を皆ができるようにならなければならない、すなわち、『想定外を想定する』ことの大切さを私たちに教えてくださりました。今回の被災地現地調査のまとめとして、『想定外を想定する』ということについて考えてみます。

震災による人・家・ライフラインへの影響

2 『想定外を想定する』ということ

 『想定外を想定する』を考える際に、まず想定外とはどの様な状況なのかを考えてみます。人が何かを考えよう、行動しようとした際にはある程度の設定が必要となりますが、それが想定です。この想定なしには物事の境目がなく、思いつく考えもまとまりがなくバラバラになってしまいます。また、この想定の範囲が大きければその範囲内で起こりうる可能性も大きくなるため、その対処法はむずかしくなり、逆のいい方をすれば、ある想定に対しより完璧な対応を求めるとすれば、その想定の範囲はより狭いほうがやりやすいともいえるでしょう。例えば、保育園での避難訓練をイメージすると、単なる火災のみの避難訓練と地震から始まる火災、二次避難まで想定した避難訓練とでは実際の心構えや行動はかなり異なると思います。
 また避難訓練の想定をする場合、どの保育園において手間も時間も費用も無尽蔵にあるわけではないので想定にはある種の制約や制限付きで、現状で対処できる範囲内に設定してしまう傾向があります。この制限から、外側の対処方法が決まっていない部分のことがいわゆる想定外と呼ぶと思われるのですが、ここで注意したいのは、起こりうる可能性があるとわかっていることでも、先ほど挙げた手間・時間・費用などの問題から対処法が見つからず想定外になってしまう、想定外にしてしまうことがあるということです。例えば、今回の震災による津波は最大で30m級とされていますが、東日本の沿岸部すべてに30mの防潮堤をつくるのは費用的に不可能であることは容易に想像がつきます。
 津波でなくても、自然災害や突発的な事故等の影響により、
●停電、通信手段の断絶、上下水道の断水・使用不可(トイレの使用不可)
●空調、冷暖房の停止
●交通機関の不通、道路の断絶・通行禁止
●食糧・生活必需品の入手困難
●理事長・園長・主任等のトップの長期不在
などが起こる可能性は十分考えられますし、今回の大震災のように、これらのことが同時に起こりうる可能性は0ではないとわかっていても、実際に起きた場合は想定外のことであり、何から手をつけて良いのかわからなくなってしまうことでしょう。
 では、前記のような状況でも保育園として最善を尽くせる環境、判断基準とはどういったものであるか[想定外を想定する]を考えてみたいと思います。
 まず[環境]ですが、思いつくのが施設面、備品面、人的面です。しかし保育園の場合、これらのもとになる財源の状況は各自治体・各保育園によって異なることと、どの園も限られた財源の中で行っている運営ですから、ここで一概に述べることはむずかしいものがあります。しかし、財源に依らない組織からの支援という意味で全国規模(近隣地域どうしでは同じように被災している場合があり、その地域内での助け合いが難しい可能性が高いため)の組織でのネットワークづくりは大切であり、実際に山田町第一保育所でも、岩手の沿岸部では数少ない全私保連加盟園だったということで幸いだったという言葉を伺いました。平常時に組織力を強く感じることはなかなかむずかしいかもしれませんが、組織力はその園の無形の財産の一つと考えます。
 また人的面で、理事長、園長など組織の長が不在の場合(出張でなくても日常の早番、遅番など配置職員が少ない時なども含めて)でも、非常時に誰が責任者となり、指示を出して行動するかを決めておくことと、その場面において責任者となる職員に自覚を促す訓練が必要と思われます。
 このように環境的な部分については、ある程度事前に準備できることですが、実際の非常事態になってから重要なのは、その後の行動を決める判断基準となります。これについてはさまざまな考え方ができると思いますが、今回の現地調査で感じたこととして、以下の事項に注目しました。

① 安全安心を優先する
 利用者である園児と保護者、そして職員の命の確保を優先します。当たり前のことですが、家や車を守りたいという意識のために避難が遅れて津波にのまれたように、いざという場面では躊躇なく物への執着を捨てる覚悟が必要です。また、それぞれが背負う責任(保育園の職員であれば園児の人命を守る)をきちんと最後まで果たすには、安易に園児を保護者のもとへ帰さずに、保育園が安全な場所であれば留まってもらう決断も必要だったと知ることができました。
 また、三陸に伝わる『津波てんでんこ』という言葉が意味するのは、「津波の時には家族のことも構わずにてんでんばらばらに避難せよ」ということであり、家族に会えない心配はあっても、そのほうが多くの人が生き残ることができると過去の体験から教えようとしています。しかし、愛する家族を放ってこれを実際に行動するのはやさしいことでありません。これを実践するには、子どもであってもお年寄りであっても、しっかりと一人ひとりが避難して安全に生き延びられるという日頃の訓練と信頼関係が培う必要があります。実際に、震災2日後まで園児を迎えに来なかった保護者は『避難所より保育園にいたほうが子どもには安心』という判断の上での行動でした。

② 平常時に行っているやり方にこだわらない
 平常時における最善が、非常時における最善とは限りません。災害時の山田町第一保育所において、避難所への道が狭く避難車(手押しのお散歩カー)が通れなかったため、保育士がおんぶヒモと両脇に子どもを抱えて避難先へ移動しなければならない状況に遭遇していました。
 人は普段の効率の良いやり方に慣れてしまうと、手間をかけたり、遠回りして目標にたどり着くことをしなくなります。日常の業務での分担作業も、あまりに特化してしまうと全体像を考える力がなくなり、非常時には多くの対処不可能な想定外を生む結果につながります。

③ 判断に迷った時には『人としてどうあるべきか』を考える
 日頃から防災計画を作成し、避難訓練等を十分に行っていても災害時にはすべてが非日常であり、判断に迷うことも数多くあると思いますが、振り返って後悔しない選択は『人としてどうあるべきか』という視点で考えることが大切と感じました。
 初めに述べた安全安心を優先することもこれに含まれると思いますが、命にかかわることではなくても、震災後の夏に園行事として復興夏祭りを開催するかしないかで随分悩んだと伺いました。結果的に復興夏祭りは開催され、園児、保護者はもちろん地域の方からも好評だったようですが、『みんなが笑顔になれること』をしようという、人としての根本の願いが否定されることはないという証明であると思いました。

 この度調査部の取材にご協力いたいた山田町第一保育所、豊間根保育園、織笠保育園の3園の皆さんからのお話を伺い感じたことの結びとして、各組織からの保育士の派遣に非常に感謝されていた印象があり、それ以外にも物資等でもたくさんの支援が全国から寄せられたとのことでしたが、果たして被災地の保育園のすべてがこのように支援を受けていたかというとそうではないと思いました。それは、被災した状況の中でも園の状況を外部へ発信していたことが支援を呼び込むことにつながったのであり、被災地に支援はしたくても状況がつかめず何もできなかったという、支援をしたくてもできなかった、送りたくても送れなかった方々の声に対する1つの答えでした。
 そのような意味で、『支援の受け方』という視点もこの未曾有の経験から学ぶべきことだと思います。

(齊藤 勝/全私保連調査部)

東日本大震災の教訓(山田町第一保育所)

① 子どもの生命を絶対に守る使命感
② 子どもを保護者に引き渡さない
③ 想定外を想定する
④ 決断には園長のリーダーシップ
⑤ 避難所には数か所を選定
⑥ 最終避難場所は屋内の避難所
⑦ 避難経路は保護者にも通知
⑧ 食糧・飲料水の備蓄(3日間)
⑨ 情報収集のために携帯ラジオ
⑩ 夜間の避難に備えて懐中電灯を常備

 

東日本大震災で園庭に避難する山田町第一保育所の様子

東日本大震災・福島第一原発事故後1年半
今、福島県の保育は…その2

◆福島県南相馬市・北町保育所の現状◆

 【保育通信No.692/2012年12月号】


多くのボランティアの方の手を借りて園庭を除染
 

1 放射線への不安とどのように向き合っているか
 現在、南相馬市内の放射線量は市街地でおおむね、毎時0.3~0.6mSv。場所によっては毎時数mSvのホットスポットがあり、郊外に行くと高い線量が計測されています。
 保育所をはじめ幼稚園、学校施設等に関してはおおむね毎時0.2mSv未満という状況です。したがって、保育所に関しては、園内で活動している範囲では外部被曝のリスクは低下すると考えられます。しかし、一歩外へ出ると相対的に高い線量となるのが現実です。
 園児の自宅をはじめ、生活圏内の線量が子どもに影響があるのか否かがわからないことが、保護者の第一の不安といえるでしょう。
 市や国は、最優先課題として生活圏内の除染を早くからあげてきました。しかし、平成24年10月現在でもほとんど除染は進んでいません。これは、除染によって出る膨大な汚染廃棄物の仮置き場が設置できないことによるためです。
 実態のつかめない放射線への不安、まったく進まない除染への苛立ち…。南相馬市に住み、子を持つ親の不安はこの2点に集約できるのではないでしょうか。

 北町保育所では、毎日定時定点で空間線量を計測、玄関の掲示板やインターネットのブログで報告を行っています。現在では環境中の空間線量も変化の生じない安定したレベルですが、あえて毎日計測しています。これは、毎日計測するという行為を通して、徐々に関心が薄れつつある放射線量に対し、「保育所は放射線に対して警戒しています」という意志を表明し、危機感を持続させる姿勢を示しているのです。
 また、園内での諸活動に関して保育所が考えていること、計画していること、実施したことに関する情報を可能な限り公開し、理解を得ることを重視しています。
 今、多くの福島県民は納得のできる情報を求めています。それは、意図的な操作、調整をされた情報ではない、裏表のない正直な情報です。
 保育所としてできることには限界があることがあります。実際にできること、やったこと、そして、実行する上での意図を誠実に伝えていくことに集中しています。現在、この地で大切なお子さんの命をお預かりする上で最も必要なことであると考えます。

2 給食や遊びで気を使っていること
(給食)

 食材は県外産を使用。可食量の多い米と水に関しては、各地の支援でいただいたものを利用させていただいています。また、米や水以外でも野菜や加工食品等多くの支援をいただく中で、安全な給食の提供を行ってきました。
 さらに、県・市の補助事業ではありますが、保育所、学校等に食品の放射線測定器が1台配置され、毎日2~4品目の放射線を測定し、安全が確認された食品を翌日の食材に使用しています。計測に関しては、市より1名専属の職員が配置されています。4月から実施していますが、セシウム、ヨウ素ともに検出されたものはありません。
(遊び)
 子どもにとって、屋外で思いっきり遊ぶことは必要不可欠です。しかし、放射線が心配で外で遊ぶことに躊躇することも多いのは事実です。結果として、福島県内には行政、NPOの力で屋内の遊び場が数多くつくられ、運営されています。
 しかし、北町保育所はあくまで屋外活動にこだわりました。私たちの保育所では除染の結果、きわめてリスクの低い環境になりました。これは、科学的な調査と複数の専門家からの助言で確認しました。
 そして、規制区域外に設置した臨時保育園の頃から、屋外活動を控えていると子どもの体力低下、情緒不安定に注目してきました。多くの保育士は「条件さえ揃えば、思いっきり屋外で遊ばせたい」「今、外で活動できないことによって、子どもの人生において失われる大切なものは無視できない」といった意識を持っていました。
 そこで現在、北町保育所を巡る状況について議論を行い、外遊びを原則解禁するという方針を立てました。そして、保護者に対しても方針を丁寧に説明し、理解を求めました。少々乱暴な気もしましたが、日々成長する子どもを前にこれ以上躊躇していられませんでした。
 「外遊びに対して、個々のニーズに対応できないか?」という議論もありました。これに対しては、一人のために全体が屋外活動できないのは釈然としない、一方で、クラスの多くが楽しく外遊びをしているのをたった一人だけ保育室に残すのは残酷だし、外遊びから帰った子どもも居残った子どもを思いやって遊びの中の楽しい気持ちの共有化ができなくなってしまっている、これは、外で遊んだ子も、中ですごした子も両者にとって残酷な結果であると考えました。
 以上をもって、年度代わりの4月より一斉の解禁を表明しました。保護者には丁寧に説明を行い、それでも不安な方については“別の選択”も考慮する提案をしました。結果、1世帯2名が“別の選択”を行いました。
 その後は、マスク着用や放射線による時間制限は設けず、のびのびと遊んでいます。除染の結果、多くの遊具を処分せざるを得ませんでしたが、その分広くなった園庭を縦横無尽に歓声をあげながら駆け回る子どもたちは輝いています。ただし、乳児や1歳児は直接砂等を口にする危険があるので、サークル車によるお散歩に制限しています。
 ここで注意してほしいことがあります。屋外活動の是非についてです。私たち北町保育所の除染の結果が比較的良好に出たのは単に置かれた環境によるものであり、他の施設より優れた除染を行ったというわけではありません。同様の除染を行っても環境条件でなかなか線量の落ちない施設もあります。しかも、私たちの保育所から2㎞程の距離で。
 また、屋外活動に難色を示している保護者の方たちの認識も尊重しなければなりません。みな同じく「子どもの安全と成長」というテーマのもと方法論が違うだけで、どちらが正解でどちらが優れているかという議論にはならない…を十分に考慮していただきたいです。これが放射線による問題を困難にしている面でもあります。

3 子どもの様子
 日常の保育の中でも「被災地の子ども」であることを意識させないよう、平穏な生活を心がけて保育を行っています。子どもたちは非常に明るくすごしています。
 事故後早い時期には「津波ごっこ」や「放射能ごっこ」といった形で自分の気持ちを表現していました。しかし、1年を過ぎた頃から友だちどうしで「地震は恐かったよね」「すごく揺れたよね」と、言葉で感情の共有を行う姿が見られるようになりました。これは、自分の感情や漠然とした不安を言葉にして表現できるようになった場面で、子どもたちの内面の成長を感じさせられました。
 また、帰還して保育所に預けて就労することで、親子とも精神的に落ち着いてきているように感じられます。入所当初落ち着きがなく友だちとトラブルをよく起こしていた子どもや、送迎の際イライラして鋭い声で叱責をしていた親も、夏まつりや運動会、日常の保育所生活の中で穏やかになっていくのがわかります。

4 行政・国・東京電力への対応について
 行政に関しては、震災当初からかなり混乱し、結果として私たちも翻弄させられました。直接私たちと接している現場の担当者は、私たちに対して真摯に対応していただき、非常に感謝しています。しかし、組織全体としては機能不全に陥っていた感が否めません。
 部署間での連絡の滞り、意思決定の遅さ等には苦労させられました。私たちは保育所がいつ再開してもすぐに保育ができるよう、職員の雇用を守りました。施設の修繕も4月から行いました。帰還児童が多くいることを受け、規制区域外で臨時保育園を立ち上げました。
 当然、経費も発生します。しかし、4~6月までは対応策が決まらないとのことで、まったくの無収入でした。民間施設は公立の施設と違い、その経済的基盤は脆弱です。さらに、民間の園に無期限休園を指示しながら、一方で公立の施設を真っ先に再開させようとまでしました。また、民間園が協力して臨時園を開設しようと立ち上がったのに対し、きわめて冷淡な態度を向けられました。
 これまで市の待機児童解消、児童福祉の向上にむけて可能な限りの貢献をしてきたつもりでしたが、市や県の民間施設に対する冷淡さ、無関心さに対して非常に虚しい気分になりました。私たちは一旦潰れれば再起はきわめて困難であり、子どもたちと職員に対して残酷な結果しかもたらさないことを認識していただきたいと思います。そして、一部幹部のオフレコの発言にあったのですが、「私立の保育園は利益追求が目的」との認識も改めていただきたいです。民間の園は事業の再生産のために一定の事業収益の確保は重要です。しかし、その収益の処理や目的はすべて透明にしています。きわめて本質から外れたニュアンスで私たちを見ている、その認識を改めていただきたいと思います。
 現在、原町区内の公立施設は休園とし、民間保育園の事業を優先しています。これも民間施設の働きかけが功を奏したと考えています。 
 市、県、国とも口を揃えて「除染」を訴えています。しかし、まったく実行されていません。「福島の復興なくして日本の復興はない」などといっているだけでは、復興するどころか荒廃していく一方です。
 役所はもっと愚直に仕事してほしい。我々は市、県、国の情報隠蔽に何度も苦しめられてきました。役所の意図が、住民を守るというより秩序の維持に主眼があったことも明らかになり、我々は役所に対して絶望的なまでの不信感を持っています。役所が何をいおうとも私たちの心には届きません。私たちは目に見える行動と実績しか受け入れられません。このことを重く受けとめてほしいと思います。
 今回の事故の全責任は東京電力にあります。津波による被害想定は以前から各方面より指摘されていたにもかかわらず、耳を貸さずにいた結果、このような事態を招きました。早急に事故を収束させ、必要な賠償を行うよう求めます。
 幹部が何度土下座しようとも、我々の生活は何ら変わりません。保育所の子どもたちに恥ずかしくないことを行ってほしい。子どもたちは行政、国、東京電力の態度をしっかり見て、記憶に刻み込んでいます。

5 保育をする者として放射線、原発問題をどのように考えるか
 原発事故は、この地域のすべてを破壊しました。
 それは人々の心、生活、コミュニティといったソフトウェアの破壊です。そして、破壊のストレスは社会的弱者としての乳幼児に還元されています。私たち保育の場に立つ者としては、未だかつてないケースに直面しています。
(この地に生きる人たち)
 目に見えず、決して実体が明らかにならない放射線とのかかわりの中で、心の中に絶えずに大きな負担を蓄積させています。さらに街の再建も見当がつかない中、いわれのない差別の可能性に怯え、「ここで生活していいのか?」ということを自問自答しています。
(避難している人たち)
 多くの避難中の人たちも穏やかではいられません。
 「自分たちだけ安全なところに避難している。現地で頑張っている人たちにどう思われるか。申し訳ない」といった罪悪感を持つ人が少なくありません。これから帰還しようかと考えても、「今更帰って大丈夫かな?」という心配でいっぱいなのです。
 さらに、父親が南相馬市に残り家族が遠方に避難しているケースも少なくなく、この場合、家族そのものが崩壊の危機にあります。多くの家族はこの地で生まれ、この地で子を育て、この地で老いていく。このような平穏な人生設計をしてきた人たちに突然降り掛かった家族の離別。そして、この“単身赴任”の任期はいつまでかも明らかでないのです。
 国民の意識がようやく成長一辺倒から、家族というミニマムなコミュニティの再評価へ向かって本格的に動き出した中での別離。
 私たち多くの家族が味わう苦痛は私たちの責任ではない、まったく納得のいかない苦痛なのです。
(子どもたちへの影響)
 子どもは、大人の様子をよく見ています。大人たちの不安はすべて子どもたちに伝わり、その心や行動に影響を及ぼします。
*昨年のクリスマス。ボランティアで保育所にやってきたサンタさんへの質問コーナーでの質問が、印象的でした。
  「放射能がいっぱいあるけど、サンタさんは僕の家に来てくれますか?」(4歳児)
*親子で比較的遠くの公園へ行き、そこで友だちをつくったK君。いつも元気でやんちゃ坊主。楽しく遊ぶうちにちょっとしたトラブルが発生。相手を怒らせてしまいました。そこでK君としては仲直りのため一生懸命考え、野花の花束をつくって手渡しにいきました。ここまでは非常に微笑ましい光景です。しかし、相手の子に「ママに草をさわっちゃダメっていわれているから」と一言いわれ、K君の花束は無惨にも地面に振り落とされてしまいました。

 このような体験の中、子どもたちの感じている痛みを放置すれば、確実に子どもたちの心は壊れてしまいます。子どもたちが言葉にできない気持ちを引き出し、受け入れ、支えなければいけません。しかし、この地の特殊な条件の下で参考になる経験はほとんどありません。自分たちで道を拓くしかありません。
 私たちスタッフは、子どもたちの将来に対して責任を持つことはできません。しかし、「いま、ここ」にいる子どもたちの成長を支援することはできます。
 「いま、ここ」にこだわり、肩の力を抜いて、しかし毅然とした態度で保育に臨んでいく決意であります。

近藤啓一/福島県南相馬市・北町保育所副所長

東日本大震災・福島第一原発事故後1年半
今、福島県の保育は…その1
◆福島県双葉町・まどか保育園の現状◆

 【保育通信No.691/2012年11月号】

 現在、まどか保育園は私の主人である園長のみが在籍し、私と息子の副園長以下、全職員は退職という形をとらざるをえない状況となってしまいました。退職理由としては、昨年3月、4月の時点では保育園からの収入がなくなり、退職するしか方法が見つけらなかったからです。
 園長を含む20名の職員のうち約1年半の間に再就職できた職員は9名おりますが、他の職員は未だに仕事を見つけられない状況にあります。就職先が見つからない理由としては、子どもの保育や妊娠、居住地が定まらないなどの理由によるものです。
 とにかく現在も進行中の「避難」であるため、職員も園児も次々住所が変わりつつあります。未だ放射能汚染・除染という大問題が解決しておらず、誰も故郷・双葉町に戻るかどうか迷っています。

 私は、現在在住の群馬県高崎市で『100,000年後の安全』と『Friends after 3.11』という2本の映画に出会いました。また、一連の放射能汚染の問題を通じて京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生と知り合いになることができた結果、放射能汚染に関する多くの弊害を学ぶことができました。映画の中で、年間放射線量が20mSvというのは我々が健康診断で受けるレントゲン検査を1年間に約400回受診するのに値する数値になると知り、驚きとともに愕然としました。
 今後、福島県の復興や安全をアピールしたい立場の人たちにとっては、私たちの声は足を引っ張る行為になるのでしょうが、私たちは本当の真実を知りたいと切望しており、誰もが納得できる正しい答えがほしいのです。このことが解決しない限り、「まどか保育園」の行先は将来にわたり未定のままです。私としては、この際腹をくくり、いわき市へ戻ることを少なからず考えておりますが、戻る決断をするにしても大きな不安を抱かざるをえません。

 小出先生が話されていたことを考えれば考えるほど、福島県内に戻ることは健康に多大な悪影響を及ぼすことを承知の上で戻ることになるからです。しかし、今のまま永久に避難生活している訳にもいきません。今後については何事もなかったかのように、多くの方が福島県内に戻らなければならないのでしょうか。
 また、現在の保護者の方々はそれぞれ、さまざまな考え方や立場によって複雑な心で生活していらっしゃると思われます。双葉町の半分の町民は県外で生活しております。そして東電に関連する会社に勤めている方も多く、家族別々の生活やまわりに遠慮している方もいると聞いております。
 しかし、まどか保育園の園児が以前のように出会えることを何よりも望んでいてくださることをひしひしと感じております。そのためにも、何とか頑張ってみたいと思っております。
 「保育通信」を読まれている全国の皆さんに、我々日本人が今までに体験したことのない、この窮状をご理解いただければ幸いです。

柗本洋子/福島県双葉町・まどか保育園

 

 

ドキュメンタリー映画
100,000年後の安全
マイケル・マドセン・監督
2010年・デンマーク



 

 

 

 ドキュメンタリー映画
Friends after 3.11
岩井俊二・監督
2012年・日本

第37回保育総合研修会 第7分科会(特別分科会)より
震災と子どもの生活

 【保育通信No.684/2012年4月号】

 2011年3月11日。その日を境に東北を、日本を変えてしまった未曾有の大震災。あれから1年以上が過ぎ、その被害状況はあらゆるツールを通して見知るところとなっている。しかし、保育園でその時どうしていて、どのような対応が行われていたかはあまり発表されていない。そこで、この分科会では宮城学院女子大学教授の磯部裕子氏、宮城県亘理町立亘理保育所前所長の藤本由紀子氏を迎え、実体験をもとにした体験談や震災以後の取り組みなどをご教授いただいた。

■保育園の被害状況

 まず初めに、磯部氏は地震発生当時のご自身の体験談を話された後、保育園の被害状況を報告された。
 岩手・宮城・福島で全半壊の施設が78施設、保育中に亡くなった園児が宮城で3名(しかし当時の新聞で保育園での死者数は0名とされ、保育園に対する賛辞の記事が載ったことで、3名が亡くなった当該保育園の職員はとても苦しんだという)、また保育外(引き渡し後)で亡くなった園児は岩手で25名(不明者16名)、宮城で53名(不明者15名)、福島で2名(不明者0名)の計83名(不明者31名)という報告がなされた。
 次に、幾つかの被災した園の様子やスライド、映像が紹介された。

●宮城県利府町にあるA保育園
 沿岸部から離れていたため津波被害はなし。しかし、ある部屋の天井がまるごと落ちてきた。幸いにも、その部屋に園児はいなかったため怪我人はなし。

●宮城県石巻市にあるB保育所
 避難する場所がなく、どこに逃げようか思案しているうちに津波に襲われる。この保育所は平屋建てのため、上昇する水位に初めは机に上り、次に棚の上、最後は窓枠に立って両手を上げるように子どもたちを持ち上げた。最終的には首の辺りまで水位が上がった。

●宮城県気仙沼市一景島保育所
 (この保育所は海から200m位の場所にある。じつは大震災の起こる2日前、9日の昼頃に三陸沖を震源とする震度5弱の地震が発生。60㎝の津波が起こったという。その時にテレビ局の取材を受け、11日に起きた地震により、その後また取材を受けている。この分科会では、その時に放送された映像が流れた)
 地震発生当時、午睡中であったため、布団を園児に被せて地震がおさまるのを待つ。5分後、園児71名を連れて近くにある災害時避難場所に指定されている公民館に避難する(この保育所では、普段から災害発生時には地域の人たちに助けに来てもらえるようにお願いしてあったために、地震発生後、すぐに近くの工場職員が駆けつけ避難を手伝ってくれた)。間もなくして保護者が迎えに来たが、避難マニュアルに従い、保護者とともに帰宅させずに公民館に留まった(結果的に、これが子どもと保護者の命を救うことになった)。
 その時は2階にいたが、10mを超える大津波警報が出ていたため、2階でも危ないと判断して3階に移動。その後津波は押し寄せ子どもたちが悲鳴をあげる中、2階は水没し、3階も危なくなってきた。そこで屋上にある貯水タンクに避難をしようとするが、屋上へは梯子を登るしかなく、一段目の高さが1m以上あったため、自力で登ることができない乳児などは大人が一人ひとりおぶるなどして全員を屋上まで引きあげた。
 日も暮れ雪も降る中、カーテンで寒さを凌いでいるのも束の間、目の前に炎が迫る。水面上に洩れた石油等に引火し、周囲は火の海となっていた。「子どもたちには笑顔で大丈夫といっていたが、内心はもう駄目だと思っていた」と、一景島保育所の先生は語る。炎による煙ですすだらけになりながら、とにかく耐えるしかない状況で公民館に備蓄されていた水と乾パンを見つけ、子どもたちに優先的に与えて救助を待った。
 そして翌朝、ヘリコプターでの救助が始まるが、燃料の関係で0歳児を優先に50名しか救助されず、全員が救助されたのは翌13日だった。「命があったのが不思議なくらい」、園長先生はそう述べていた。

■藤木氏の体験談

 藤本氏が勤めていた亘理保育所は仙台の南東部に位置し、沿岸部からは7~8㎞離れたいたため、津波の被害はなかったという。
 地震発生時は午睡が終わろうかという時で、真っ先に警報機を鳴らして危険を知らせる。子どもたちはパジャマのままで防寒具のみを持ち、避難を始めた。しかし外は寒かったため、余震の合間に園内に着替えを取りにいくなどして保護者の帰りを待った。その間、子どもたちは泣きもせず、整然としていた。
 情報源の防災無線(電源は無事だったのでテレビなどで確認できたはずだが、混乱していて防災無線しか聞かなかった)からは津波の到来が繰り返し流されていた。しかしその規模や到達時間がわからず、不安な時間をすごしていた。そうしていると保育所の前にある用水路が増水を始め、また通りすがりの人から生協(1㎞以上先)まで津波が来ていると聞かされ、念のため近所の少し高台にある工場へ避難した。そして17時頃、保育所に戻り保護者のお迎えを待った。最後のお迎えは21時半だったが、その間にも余震は続き、大きめの余震の時にはベッドごと寝ている子どもを外に連れ出したが、子どもはまったく起きなかった。
 その夜、職員は全員保育所に泊まり、翌日に破損状況を確認し、役所へ報告した。破損状況は、天井が落ちる、雨樋が壊れる、設置スピーカーが落ちて壊れる、灯油が漏れ出すなど、修理をしないと保育を再開できない状況にあったので、14日より休所となった。そして、その日から職員は避難所勤務を命じられた。

■保育園・幼稚園の再生を

 保育の再開については地域間で差が出ていた。藤本氏がいた亘理町は宮城県内で最も早く保育を再開した地域で、3月30日には年長児の修了式を行い、4月4日からは被災した保育所と合同で保育をスタートさせている。しかし、2つの保育所が一緒に保育を行うむずかしさ、給食の問題、保育をする場所の確保など、さまざまな問題が生じていた。
 こういう状況下にあり、学校をどのように再生しようかという話はいろいろなところであがっていたようだが、保育所や幼稚園の再生の話は二の次になっていた。そこで、磯部氏が中心となり「みやぎ・わらすっこプロジェクト」を立ちあげ、保育園や幼稚園の再生への手伝いしようと動き出した。
 まずは、現場に必要な物資を届けることから始めたという。その話を磯部氏のネットワークを活用して全国へ呼び掛けると、保育現場に必要な物が瞬く間に届き、それを仕分けし、各園に必要な物を届ける作業を続けた(届けた物の中には「温かい食事」も含まれていて、週に1度届けていた。その材料費は義援金から捻出した)。
 そのさまざまな支援物資には感謝の意を示されていたが、同じ保育の仕事をしている人なのに破れている絵本や壊れた椅子、その他心無い物を送ってくる人がいたらしく、複雑な思いになったと述べられた。ボランティアについても、人出は足りているが申し出があると断るのも憚られ、その手配に労力を割かねばならないこともあったようだ。

■今回の震災の教訓をいかそう

 磯部氏は、このような支援活動を通して感じたこと、考えさせられたことを次のように話された。
 「まず感じたことは、今の日本の保育制度は二元化(保育園と幼稚園)ではなく四元化、つまり、公私立の保育園と公私立の幼稚園である。例えば、公立の幼稚園団体から送られてきた義援金や物資は公立の幼稚園に届けてほしい、私立の保育団体から送られてきたものは私立の保育園にという指定があった。
 次に考えさせられたことは、『何もない』という状況で一体何が保育に必要なのか?また、何もない状況でも保育ができるとしたら、一体どんなことをすればいいのだろう?今まで保育の場に当たり前にあったもの(保育室や園庭、遊具など)が、そもそもどういう意味を持っていたのか?ということだった」
 続いて、今回の震災の教訓として、災害への備えとしてどのようなことを確認しておくべきかを話され、常識にとらわれない、マニュアルの再考(避難場所や避難訓練の方法、備蓄用品の保管場所、園児の引き渡しのタイミング)、情報収集の手段などを挙げられた。
 午前中のまとめとして、地域のネットワークの重要性をあげられた。保育園の子どもたちを守るのは保育士であるが、保育士にも限界がある。日頃から地域の人たちとのコミュニケーションや連携を取ることで、いざという時に手を差し伸べてもらえる。このことがいかに大切であるか。そして、大人は子どもから元気をもらっている。子どもが元気だと大人も元気になれるということを非常に強く感じた、と話された。
 午後は、午前中に話すことができなかった部分と、グループワークとして参加者どうしの情報交換、そして「保育園としてどんな支援ができるか」と題し、「子どもとともに」「園として職員とともに」「保護者、地域とともに」「個人として」の4つのカテゴリーについて話し合った。
 最後に、今回の震災では多くの命を失ったが同時に生まれてきた命もある、という意味も込めて3月11日生まれの子どもたちの映像が流れ、終了した。

(片岡敬樹/全私保連広報部)

 保育所の被災状況(「河北新報」2011年10月4日)


注 3県まとめ。データーは認可、認可外、へき地の各保育所を含む。保育中とは、保育施設で園児を預かっている状態を指す。

大人が笑っていないと 子どもは本気で笑わない
…福島県伊達市・霊山三育保育園

【保育通信No.684/2012年4月号】


霊山三育保育園の全景


■じつは「ホットスポット」が点在

昨年12月15日は南相馬市にある原町聖愛保育園と北町保育所を訪問させていただきました。放射能汚染により緊急時避難準備区域に指定されてしまったことから、現場のさまざまな苦悶や苦闘、行政や東京電力に対する強い憤りを持ち、混乱と将来への展望が持てない中でも必死に保育を行い、前に進んで行こうとする姿を4月号、5月号でお伝えしました。
 今号では、その翌日の16日に訪問させていただいた伊達市にある霊山三育(りょうぜんさんいく)保育園の状況をお伝えします。
 伊達市は福島県の北部に位置し、福島第一原子力発電所から北西に約60㎞の場所にあります。福島原発から30㎞圏外のため、伊達市全体は政府より避難等の指示はない地域ですが、昨年3月12日に水素爆発を起こした当時の気象状況から放射性物質が多く飛散した地域であり、いわゆる「ホットスポット」がたくさん点在する場所といわれています。それを示すかのように、福島市から伊達市に移動する車中での放射線量は、南相馬市内よりも線量が高く計測される場所が多くあり、その値は0・5~0・6μsv。単純に原発からの距離で避難等の段階を区切った政府のやり方がいかに安易だったかがわかりました。
 訪問当日、齋藤厚子園長先生は東京への所用でご不在であったため、代理として主任保育士の樋口先生(以下、敬称略)に対応していただきました。

■12日以降も保育を継続

/3月11日以降の様子や流れを聞かせてください。
樋口/当日は在籍児105名の内77名が登園していました。地震が起こった時間は、年長児たちは就学準備のため室内で保育活動を行っていて、他の子どもたちは午睡中でした。地震発生後すぐに子どもたちを起こして各保育室の中央に集め、地震がおさまるのを待っていました。しかし揺れがなかなかおさまらなかったため、齋藤園長が各保育室の様子を見たうえで園庭に避難するように指示しました。その日はとても寒かったので、ブールシートを敷いて園内から布団や毛布を持ち出し、寒さを凌ぎました。
 度重なる余震の最中にも保護者のお迎えが徐々に増えて来る中、雪が降り出してきたことや、余震の回数も減ってきたこともあり、園内に戻って最後のお迎えまで待ちました。お迎えの時、泣きながら来たお母さんもいました。最後のお迎えは18時20分くらいです。そして翌12日から休園しました。
 これは、原発事故の影響というよりもライフラインである電気と水道が止まったからです。もちろん、市当局と連絡を取って決めました。しかしその間も1~2名の保護者はどうしても保育をお願いしたいとの申し出があったので、このような状況でも保育は行っていました。結局、電気は13日、水道は21日に復旧したので、22日より正式に保育を再開しています。

/その間、職員はどのようにしていたのですか?
樋口/基本的には出勤していました。ただ、小さい子どもがいる職員などは自宅待機としていました。
 

 /地震発生時の子どもたちの様子はどうでしたか?
樋口/地震の揺れが半端ではなく、下に隠れていた机が左右に振れていたので、それに驚いて泣き出す子もいました。ただ、小さい子はよく状況がわからなかったのか、あまりの状況に呆気にとられていたのか、泣く子はそんなにはいませんでした。

/建物や設備の被害状況はどうでしたか?
樋口/とにかく揺れが大きかったので机上の物は「飛び散った」ようになり、棚などは倒れて書類は散乱し、まさに足の踏み場もないような感じでした。建物は若干傾いたようで、床にボールを置くと転がっていきます。あとは壁に少しひびが入ったり、支柱と天井との間に隙間ができたり、一番ひどかったのは駐車場にあった浄化槽が地中に陥没してしまったことです。


福島第一原発からの位置

■父母の協力で除染

/12日に原発事故が起こり、当時の天候から放射能による高濃度汚染が原発の場所より北西方向に集中しました。この地域の汚染状況は…?
樋口/当園のある伊達市霊山町掛田地区はとくに何の指示も出ませんでしたが、この近辺だと霊山町小国地区などは避難指示が出たようです。その地域が一体どの程度の線量があったのかはわかりません。
 現在も毎日モニタリングを行っています。室内でだいたい0・3μsv、屋外(園庭)で0・5~0・6μsvです。この値はもちろん除染後のもので、除染活動は保育園再開後に父母の手を借りて行いました。
 除染の一つとして表土の入れ替えを行っていますが、表土を入れ替える前の線量は2・5μsvありました。ただ、その入れ替えで出た汚染土を保管する場所がないので、今は園庭の隅に集め、シートで覆って保管してあります(インタビュー後にこの場所を見学しましたが、保管してある土の高さと量に驚きました。盛られた土の高さは我々の背丈とほぼ同じくらいで、この付近の線量はシートで覆われていたためか約0・4μsvでした)。

/除染費用はどうしましたか?
樋口/除染に必要だった高圧洗浄機、デッキブラシ、窓拭き用具は現物支給されました。表土入れ替え費用は支給してくれました。

■室内遊びを工夫して

/外遊びはどのようにしていますか?
樋口/除染活動が終了した時、子どもたちのために数分でもいいから外遊びを再開したいと考え、その旨のお知らせを保護者にしたのが11月です。時間は15分間で、固定遊具は使わずに鬼ごっこや散歩を条件に保護者から同意書を得て始めました。
 しかし、初めの頃は同意しない保護者も多くいて、同意した保護者の子どもが外遊びをしているのを見た子どもたちは家で「外で遊びたい」と泣いて訴えたようで、その姿を見て同意した保護者もいました。結局、同意しなかった保護者は5~6名です。

/11月までは外遊びをしていなかったようですが、それによる子どもたちの変化はありましたか?
樋口/そうですね、やはりテレビなどで盛んに放射能のことが報道されていて、それを常時目にし耳にしているためなのか、窓を開けると「放射能が入ってくるから開けちゃだめだよ」といったり、外に出てはいけないという認識を持っていました。また、ずっと室内での活動でしたが、普段は禁止しているテラス(廊下)を走ることを、職員が見ている時は許可したり、ホールの使い方を工夫したりしたので、園児どうしのトラブルが増えたということはなかったです。


シートで覆って保管してある除染した園庭の表土(汚染土)の山

 

 

■保護者の安心と子どもたちの笑顔のために

/今回のことで新年度に入園する園児数に何か影響がありましたか?また、経営的な影響は?
樋口/震災当日の在籍児は105名で現在は95名です(認可定員は80名)。今回の事故により数家族は県外に引っ越しましたが、4月に入園予定だった子どもたちはそのまま入園しました。したがって運営費は通常通り入りましたし、今回のことで資金面で困ったことはありませんでした。

/今回の経験から、避難訓練等のマニュアルを見直したりしましたか?
樋口/先月、消防署の方に来ていただいて総合避難訓練を行いました。その際に署員の方からマニュアルの見直しや、地域の方との連携の話がありました。
 実際、地域の方の助けがないとやっていけないということは今回の体験でよくわかったので、今後の訓練にいかしていきたいと思っています。
 
/今回の震災を経験したことによる、何かしらエピソードはありましたか?
樋口/12月9日に外部講師の方を招き、「あそび歌コンサート」という手遊びや歌遊びをする行事を行いました。一時間程度のコンサートでしたが職員もとても楽しい時間をすごし、子どもたちは喰いつくように参加していました。そして何より一番嬉しかったのは、震災以降今まで見たことのないような、とっても素敵な笑顔を子どもたちはしていたのです。
 講師の方に「大人が笑っていないと子どもは本気で笑わない」といわれ、大人が常に笑っていることの大切さを実感した出来事でした。
 
 /最後に答えづらいことをお聞きします。現在、常時放射線量が0・5μsv前後を計測している中で、子どもたちを保育していることをどう思いますか?
樋口/う~ん…、ここは大丈夫だよといいきれない、ここで生活していていいのか、という何ともいえない不安は正直にいうとあります。
 ただ、実際にはこの地に暮らしている人がいて、子どもがいる限りは保育をしていかざるをえない。したがって、保護者の方にいかに安心して子どもを預けてもらえるかを考えながら日々の保育を行っています。
 
 ■インタビューを終えて
 お話を伺った後、園内各所を見学させていただきましたが、放射能という目に見えないものによる高い数値がはじき出される以外はどこにでもあるような保育園の風景です。見学の時の雑談で聞いたところによると、園児たちは累積線量計を常時携帯しているとのことでした。取材時で最も多くの放射線を浴びた子どもは0・5ミリ(500μ)svだったそうです。
 インタビュー中、コンサートの話をしている時に、樋口先生が思わず涙ぐみながら話をされた姿がとても印象的でした。
 今回、2日間で計3園の保育園を訪問させていただきました。いずれの園も放射能という目に見えないものにより日常的に不安を抱えながら生活をしているという点では同じでした。しかし、政府による機械的な区分けにより、高線量の地域が何の指定もされないで、ただ原発から近いというだけで避難区域に指定されてしまったため、現在の生活も将来への展望も奪われてしまった地域があるという現実。これには非常にやるせない思いがしました。
 そして、やはり現場に行かなければ知りえなかったこと、わからなかったことがあるということを痛感しました。訪問させていただいた3園の職員の皆様に共通していたのは「子どものために今できることをしよう」という、まさに保育の原理ともいえる考えに立って子どもたちと向き合っていることでした。このことは、保育という同じ仕事をしている、仲間である私たちにとって、とても誇りに思えました。
 原発事故に始まったさまざまな困難や苦悩、苦労は今後も続くと思われます。この状況に少しでも手を差し伸べ、痛みを分かち合うことこそ、仲間である我々の使命だと思いました。
 改めて、今回ご協力いただきました、南相馬市・原町聖愛保育園、北町保育所、そして伊達市・霊山三育保育園の皆様、本当にありがとうございました。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)


園舎内の支柱と天井との間にできた隙間

今一番の支援は“忘れられないこと” “覚えていてもらうこと”
…福島県南相馬市・北町保育所

【保育通信No.684/2012年4月号】



北町保育所の全景
 

■前号からの続き

 原町聖愛保育園を後にして、10分位で次の訪問先である北町保育所に到着。正門から砂地の園庭を通り園舎玄関に入りましたが、正門から玄関までのおよそ20mのその道筋には幅60~70㎝位の緑の絨毯らしきものが敷かれ、送迎はその“緑の細道”の上を歩いて行くようにしてありました。原町聖愛保育園と同じく、砂を園内に持ち込まないための工夫と思われます。
近藤裕理事長兼所長(以下、近藤裕、敬称略)、近藤啓一副所長(以下、近藤啓、敬称略)の出迎えを受け、奥にあるホールでお話を伺いました。

■辛いこと

/今回の震災により現在大変な状況に置かれた原町聖愛保育園の遠藤園長からもお聞きしましたが、こちらの状況はいかがです?
近藤啓/そうですね。住環境はまだまだ落ち着いていないのが現実ですが、園の管理者としての立場から今一番問題だと思っていることは、現在全国にある私立認可保育園の中でこのような状況に置かれているのは南相馬市にある4園のみ(実際には20㎞圏内に私立認可保育園が1園あり、これを合わせると5園だが、あまりつながりもなく、現在連絡が取れていない)であり、国や県の政策から完全に抜け落ちてしまっている、ということです。運営費の算出についても人件費を絡めた行政からの指示が右往左往している状況です(この時点で97万円ほどの運営費返還を求められていて、この返還が完了していないため12月分の運営費は差し押さえられていた)。人が資本の仕事であり、子どもたちがいつ園に戻ってくるかわからない中、雇用は確保しておかなければならないし、そう簡単に合理化などできるわけないのです。
7月頃になりようやく運営費が振り込まれましたが、それまでは無収入状態だったので、園に残り働いていた職員の給与について、4月は通常の6割、5月は8割、6月からは満額を支払いました(6月になりそのうちに運営費が支払われるとの情報があり、それに先立って満額支給にした)。また、小さい子どもを抱えた職員等避難をしていた職員には、休業補償という意味で6割支給していました(この休業補償は園が再開する9月まで支給)。ただ、10月に園を再開した時点で戻って来れなかった職員には退職という形をとってもらいました。本当はそのようにしたくなかったのですが、支払い続けるのはむずかしい状況でした。
年月の長短はあれ、時間をかけて育てた職員たちを何の落ち度もないのに手放さなくていけないのは相当辛かったし、何より園にとってかなりの損失でした。戻りたくても戻れない職員に戻ることの強制は、やはりできませんでした。

/地震による建物等の被害はいかがでしたか?
近藤裕/この建物は耐震を考慮して建設したので、被害はまったくありませんでした。

/震災時に在籍していた園児数と現在の園児数はどれくらいですか?
近藤啓/震災時には79名の在籍でした。そして2011年4月1日に70名でスタートする予定でしたがそれは叶わず、5月6日よりスタートさせた「なかよし保育園」(3園合同の保育園/本誌4月号参照)での北町保育所の園児は6名です。なかよし保育園が終了する頃の最終的な人数は16名です(なかよし保育園全体での最終的な人数は97名)。
10月9日に23年度の卒園式を行い、10月11日に園を再開 *1、現在は34名の在籍です。ただ、このうち15名は以前に他の保育園や幼稚園に在籍していた子どもたちです。つまり、北町保育所の元々の園児は19名しかいません。

*1 卒園式の日も園再開の日も、原町聖愛保育園と図らずもまったく偶然に同じ日になったと聞いた時、何か運命の糸のようなものを感じました。


/今後、園児やその家族が帰ってくるという見通しはないとお聞きしていますが。
近藤啓/現在避難している家庭に「帰って来て」といえないことがとても辛いです。園庭や園舎はすべて除染しました。空間線量は保育所の敷地内であれば0・1~0・15μsvです。しかし、敷地外はその3倍位あります。そのため健康への影響を考えると、「帰って来て」とはとてもいえないのです。とにかく今は目の前にいる子どもたちに集中しよう、一生懸命ケアをしていこうと職員と話し合いました。
 


福島第一原発からの位置


■「津波ごっこ」をする子どもたち

/現在の子どもたちの精神状態はどうですか?
近藤啓/とても落ち着いています。子どもたちは避難所など、人が多い場所や大人の中で周囲を気にしながらすごしていたので、なかよし保育園のあった公民館のような狭くて暗い場所でもとても明るくすごしていました。その中でとても印象的だったのが、どこの避難場所でもあった、いわゆる「津波ごっこ」が起きたことです。「津波ごっこ」をする子どもたちの中には、直接津波の被害を受けていない子もいました。おそらく、テレビで繰り返し流される映像を見てきた影響と、地震発生後に起きた自身の環境変化を「津波ごっこ」という形で自分なりに理解しようとしているのではないかと思います。
しかし、その行為に対して干渉しないほうがいいといわれていたので見守っていたし、そのように表現できるということは、自分を出せているということだと思っているのでプラスにとらえています。ただ、この現象で不思議なのは、各地の避難所で短期間、同時期に起こり、同時期に収束したこと。理屈では説明できない、時間の経過がそうさせたのかと思っています。

/現在、外遊びはどのようにしていますか?
近藤啓/マスクをさせて、1日30分を限度に遊ばせています。遊具は保護者から不安の声が出ているので使用は控え、かけっこを中心に鬼ごっこや散歩、マラソンをしています。
砂を口に入れてしまう危険がある3歳未満児はサークル車に載せて散歩をしていますが、その散歩コースも事前に線量計で測ります。同じ歩道内でも50~60㎝違うだけで数値が変わってしまうため、できるだけ線量値が低い場所を選んで通っています。このような対応をして保護者には理解してもらっていますが、どうしても外には出さないでほしいという保護者もいて、その子だけは散歩の間も室内で保育をしています。

 

屋外活動と放射線量を毎日記録、掲示している


■何が安心で安全なのか 先がまったく見通せない…

近藤啓/敷地内の空間線量は先述の通りで、それは地表1・5mの地点を30秒おきに3回計測してその平均を公表しているのですが、その保護者はその数値を信用できないようなのです。この地域に居住する市民は行政から散々に騙されてきた経緯があるからだと思います。
3月12日に原発事故が起きた後、行政より避難の指示があった時、その行く先々で高い線量を計測していました。その数値は後からわかったことですが、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)で出していた結果がすぐに公表されていればそのようなことはなかったと思います。また米のことも同じで、一度は「福島の米は安全」と宣言したのにその後次々とセシウムが検出されました。だから、いくら行政が大丈夫、我々(保育所)が大丈夫といってもその保護者が信用しない心情は理解できるのです。私自身も行政が発表している数字は信用していないですから。したがって、そういう申し出があって以来、入所希望があった場合、外遊びがあるということを了承してもらってから入所を決めてもらっています。
近藤裕/経営者としてこの先がまったく見通せない、何年かかるかもわからない、一体どうすればいいのかわからない。けれどもやらなければならない、その方向や行き先がわからなくても。何が安心で安全なのか。国や東電が発表することが次から次と嘘だとわかり、その発表や数値は誰も信じていない状況です。
今この地域では“うつ”が増え、体調を崩す人が増えています。こういう地にあり、若い人がここに戻ってくるかといえば、そういう望みは持てない状況にあります。私たちは3月16日に避難をしたのですが、その時は3か月もすれば元に戻れると思っていました。しかし、それが今の現実なのです。
近藤啓/今、この地域の家族の現状としては男性の単身残留者が多いことです。つまり、その奥さんや子どもが別の場所に避難をしているため街全体の流通が低迷し、不活性状態にあるということです。
また、私が体験をしたことを一つお話します。私の実家が県外にあり、所用で帰省するため高速道路を利用しました。その際パーキングエリアに立ち寄って体を休めようとしていたところ、「わぁー福島ナンバーの車だー」と子どもが大きな声で叫び、気づくと周囲にいる人々がみんなこっちを見ているのです。このような話は噂では聞いていたのですが、わが身で体験すると何ともいえない気持ちになります。だから、県外では「福島出身」ということを隠して生活している人も多いと聞きます。これは、ここに住んでいる市民の辛さの象徴なのです。
近藤裕/戦後、原子力爆弾の被害者が被ばくしたことを何十年も隠して生活してきたことと同じように、これからそういう人が多く出てくると思います。そのような状況をつくり出す国民であってほしくない、と願いはしますが、哀しいことですが現実にはあるのです。
近藤啓/福島の産業は農業がメインで、地産地消のもとに、子どもたちに福島の米や他の食物を紹介しながら地元に対する誇りを持たせるような保育を行っていたのに、今回のことで地元の食材は使えない、外部からは特異の目で見られる、こんなことで子どもたちにここで生きていく誇りや良さを教えていくことなどできません。我々がやりたいと思っていること、長期的な見通しを持った保育が何一つできないのです。とにかく、今までの価値観がすべて崩れ落ちました。
近藤裕/先の見通しということでいうなら、この地域には公立保育園が3園あります。先ほども述べましたが、現在の在園児のうち半分近くは他園の園児です。これで24年度から公立保育園が保育を再開したら、私立保育園は経営できなくなります。そのため、原町聖愛保育園の理事長先生と一緒に、新年度の園児募集については公立保育園はやめてほしいという要望書を市長や議会宛てに提出しました(取材時点で公立保育園は閉鎖されたままで、24年度の再開見通しは未定でした。後日連絡を取ったところ、24年度について公立は再開しないということでした)。

 


石川県の保育園より、子どもたちがつくったお米が送られてきた!


■なかよし保育園の合同保育で得たこと

/話を少し戻しますが、なかよし保育園を開園している間の勤務状況はどのようにしていましたか?
近藤啓/管理者については、3園が持ち回りで常駐していました。私が月・火曜日、よつば保育園が水・木曜日といった感じで。保育士は3園の職員が合同で保育をし、なかよし保育園としての保育計画やデイリープログラムを3園の職員が話し合ってつくりました。震災までは各園がそれぞれのやり方で保育をしていたので細かなことの摩擦はあったにせよ、他園のそれぞれ良いところを認め合いながら保育を行っていったというのは、とても画期的なことではないかと思っています。このことは、それぞれの園の、地域の子育て支援のレベルアップにつながったと自負しています。
伝えたいこと

/現状として放射能からの復旧が進まない中、国や東電はもっとお金を出すべきではないか。出そうとしないなら、“奪い取る”という気概を持たないといけないですね。
近藤裕/はい。東電から金を“奪い取る”というくらいの気持ちでいます。これから東電と交渉に入りますが、最終的には弁護士をたてて交渉を行わなければいけないと思っています。
近藤啓/今回の放射能や運営費に対する国や県の姿勢は、とにかくあいまいです。監査等でさまざまな縛りを我々は受けているのに、いざこういう事態になると明確な態度をとってもらえない。12月14日付で送付された運営費算出に関する通知文一通をあげてみても、発信者名がどこにも載っていない、4月当初に聞いたこととは違う内容の文書を平気で送付してくる。どうしても怒りの感情が湧いてくるのです。

/最後に、何か伝えたいこと、おっしゃりたいことはありませんか?
近藤裕/いつの時代もそうだとは思いますが、役所というのは問題を起こさなければいいという態度です。とにかく声を出すということがいかに大事なことかを感じました。今回の運営費の支弁についても、全私保連や日保協が声を出してくれたお陰で動きが早まりました。ほんとに助かりました。
近藤啓/全私保連や他の方の支援物資は本当に有難いと思っています。ただ、今我々にとって一番の支援は“忘れられないこと”“覚えていてもらうこと”です。

 


お話してくださった近藤裕理事長兼所長(左)と近藤啓一副所長


インタビューの主な内容は以上ですが、いくつか貴重な資料をいただきました。その中の一つに『原町区保育所父母の会連絡協議会が提出した「市に対しての要望・提案」に関する回答』という資料があります。これは、同協議会が除染や放射能汚染全般、雇用や日常生活、医療や福祉などについて要望・提案をした事項に対し、市の回答が記載されていました。詳細は省きますが、「お役所的な回答」という印象は拭えません。
また、今回体験したことを何か形に残したいとの思いから『3月11日以後~平成22年度北町保育所修了児保護者による記録集』という小冊子を作成しています。これも詳細な内容は省きますが、各保護者・家庭がどのような想いを持ち、また震災後どのように生活を送っていたかが記載されていました。当事者でなければ出せない表現、想いを感じ取ることができました。
北町保育所の皆様、ご協力いただき本当にありがとうございました。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)

本当は、もっと遊ばせたいし のびのびと散歩をさせてあげたい
…福島県南相馬市・原町聖愛保育園
 【保育通信No.684/2012年4月号】


原町聖愛保育園の全景


■はじめに

 前号では聞いて驚いたこと、見てとても印象に残ったことをランダムに掲載しました。今号からは、訪れた各園に焦点をあわせてお伝えしていきます。
 昨年12月15日は、南相馬市にある原町聖愛保育園と北町保育所に伺いました。両施設とも市中心地から程近い地点にあり、海岸からは約8㎞の場所に位置しています。福島第一原子力発電所からは半径20~30㎞の地点です。この地域は、福島原発事故発生後4月22日に緊急時避難準備区域と政府から設定され、9月30日にその設定が解除されるまでの間は子どもや妊婦、要介護者や入院患者はその地に立ち入りができなくなりました。つまり、公にその間は保育事業をすることができなくなってしまったのです。そして、指定解除後も放射能や減ってしまった園児に頭を悩まされ続けています。そのような状況で、地震発生後から現在に至るまでの経過や苦悩、苦悶をお聞きしました。
 15日午後1時過ぎ頃、最初の訪問施設である原町聖愛保育園(社会福祉法人ちいろば会)に到着。正門から玄関、事務室へと通る途中、下駄箱の前と事務室の出入口にB4~A3判大の粘着板のようなものがありました。「害虫駆除用?」と不思議に思い聞いてみると、「外から持ち込んだ砂をできるだけ室内に持ち込まないように、一度これを踏んでから中に入る」とのことでした。つまり、放射性物質が室内に入ることを極力避けるためなのだそうです。
 さっそく、園長の遠藤美保子先生にお話をお聞きしました。


福島第一原発からの位置

■「事業としての保育」が再開できない

/地震発生直後からの経過を教えてください。
遠藤園長/3月11日、南相馬市は震度6弱の地震に襲われました。沿岸部ではないので津波被害はありませんでしたが、地震により棚等の荷物はかなり散乱しました。ただ、建物の損傷は軽微だったので荷物は翌日に片づければいいと判断し、当日は職員を帰宅させました。
 翌日12日、電気・ガス・水道は問題なく使えたので保育を行う予定でしたが、登園したのは1組の親子だけでした。そのため、「今日は、○○ちゃん一人だけ」と保護者に話したら、連れて帰りました。その後は、園内の片づけや炊き出しを行っていました。
 そうこうしている15日の午前11時、福島原発から半径20~30㎞圏内に屋内退避指示が出て、安全が確保されるまで無期限での休園を余儀なくされてしまいました(地震発生当日・11日午後9時23分には半径3㎞圏内に避難指示、12日午前5時44分には半径10㎞圏内に避難指示、同日午後6時25分には20㎞圏内に避難指示が出されていた)。
 私たち職員は、3月27日まで各々の判断で避難等の行動をしていましたが、28日からは園として避難した家庭の安否確認を随時行いました。
 そうしているうち、市外に避難していた家庭が4月10日過ぎ頃から少しずつですが戻り始めてきていることがわかってきました。そこで、戻ってきた園児の家庭訪問を4月18日より開始しました。その訪問活動によって、当時100名在籍していた園児のうち20名が南相馬市にいることがわかりました。
 また、いろいろな問題があることもわかりました。それは、子どもが避難先で過食や嘔吐を繰り返す、円形脱毛症になる、手や足を噛む、オムツをしていなかった子がオムツに戻ってしまう、夜泣きをする、歩いていた子が歩かなくなる、避難先で外出しようとすると大声で泣き叫ぶなどという症状が出てきているということでした。また、親も午後になってもパジャマのままですごしていたりという家庭もありました。
 そのような状況がわかったので、私たちは「このままではいけない。なんとしても保育を再開しなければ」と話し合い、市へその意向を申し入れました。ただ口だけで伝えたのではわかってもらえないと思い、子ども100名分の状況とその連絡日、連絡者を詳細に記載した資料を作成し、提出しました。
 しかし、4月22日に緊急時避難準備区域に設定されてしまったため、私たちがどんなに資料をつくってお願いしても、「保育を事業として行うことは絶対してはいけない」という回答しか得られませんでした。子どもたちを放射能から守るという意味では仕方がないのは理解できるのですが、本当にこの設定は私たちを縛り、苦しめました。
 私たちは、「事業としての保育」が再開できないのなら、なんとか子どもたちのためにできる方法はないだろうかと頭を絞りました。考えついた結論は、施設を地域の子どもたちに開放したらどうかということでした。
 そう考えた私たちは、4月25日から保育園の施設を無料開放し、ボランティア活動ということで避難していない子どもや避難先から帰ってきている子どもたちを受け入れ始めました。また同時に、親向けのサロンも始めました。このサロンでは、お母さんたち自身が体験した被災のことを互いに涙ぐみながら話をしていました。
 ところが、市は「5月6日に30㎞圏外で公立保育園を再開し、民間保育園の園児も預るので私立保育園の先生は休んでください」といってきました。しかし、『新しい場所での生活や見知らぬ先生がいるという環境では不安だ』という声が北町保育所やよつば保育園からあがり、『30㎞圏外で3園合同で保育を行わないか』という声をかけられました。
 そこで5月6日より、30㎞圏外の鹿島区寺内地区に公民館をお借りして、民間保育園3園合同で臨時保育を開始しました。名前は「なかよし保育園」と決め、33名でスタートしました。ただ、公民館は畳の小さい部屋しかなく、またいろいろな事情で戻ってくる人がいて、子どもの数も増えてきてこの場所だけでは狭くなってきたので、原町聖愛保育園のみ鹿島区江垂地区に施設を借りて、6月27日に分園という形で保育を始めました(子ども15名)。
 しかし、「なかよし保育園」の場所的関係もあって、通園できない子どもたちもいたため、原町区二見町地区にある原町聖愛保育園での無料開放は7月29日まで続けましたが、それから徐々に就労する保護者が増えてきたのに伴い、利用者も増えてきてボランティアといえる状態ではなくなってきたことや、原町のほうの利用者は1人、2人になってきたため、原町地区の施設無料開放は終了しました。
 



職員、保護者、ボランティアによって、保育園の屋内外をすべて除染した

 
 
 
■屋内外の除染作業を開始 

 この頃、市が「8、9月は除染強化月間」と定めたのに伴い、保育園も屋内外の除染作業を開始しました。この除染作業はすべて職員や保護者、ボランティアによって行いました。
 鉄製の固定遊具は、錆に付着した放射能を浮きあがらせるためにトイレ掃除用の酸性洗剤をキッチンペーパーに含ませ、それを遊具に巻きつけてさらにその上に食品用ラップフィルムを巻き、一晩おいてからそれらを外して水洗し、乾いたらペンキを塗る、という作業を続けました。繊維強化プラスティック製の遊具も同様に、すべて行いました。
 建物については、外側は高圧洗浄機で洗い流しました。室内はハタキなどで叩くと空気中に埃が舞ってしまうので、クエン酸を溶かした水にひたした雑巾で拭き掃除をしました。また、玄関等出入りが頻繁にある箇所の板の継ぎ目などは、歯ブラシを使って洗ってから雑巾で拭きました。
 この作業で、鉄製や繊維強化プラスティックなどの遊具の放射線量は下がったのですが、木製のものはこの方法での除染作業では線量が下がりにくかったので、試しに2、3㎜表面を削ってみると線量が下がりました。しかし、乳児が利用するウッドデッキ等は処分してしまいました。
 樹木は1本1本全部線量を測り、高い数値のものは根っこから切り倒し、そうでないものは高圧洗浄をしました。園庭の土は数値が低くなるまで表土を削って新しい土に入れ替えました。発生した汚染土は保管場所がないため、園庭の隅を深く掘り下げて特殊なシートで覆って埋めました。しかし今後、市が回収するといっていますがどうなるかはわかりません。そして、園庭砂埃の飛散防止のために新しい芝を植えました。
 そうしているところに緊急時避難準備区域設定解除が9月30日に発表され、保育することが可能となりました。除染作業も10月3日に終了したので、開催できなかった2010年度卒園式を10月9日に行い、翌々日の11日より園児35名で保育園を再開しました。その後、園児は45名となり現在に至っています。

/現在と除染前の放射線量はどれくらいでしたか?
遠藤園長/今は毎日決まった時間に測定しています。全部で14か所くらいなので場所によって数値は変わってきますが、だいたい0・1~0・15μsvで、汚染土を埋めた箇所は高さ1㎝の所で0・2μsvです。
 しかし高い数値を示す場所があり、園の施設外にある駐車場は除染をしていないために0・35~0・36μsv。門から玄関に敷かれているインターロッキング(コンクリート製)は0・5~0・63μsvで、どんなに除染しても下がらないので表面を削ることを検討しています。
 除染前の数値は、正確に測定できる機械がなくて、それが手に入ってから測り出したのが6月です。これも箇所によって違いますが1~1・2μsvありました。因みに、除染の際に出たゴミを集めた袋を測定したら43μsvを計測しました。
外遊びは1日30分を限度に

/外遊びはどうしていますか?
遠藤園長/東京大学の先生には「空気中のセシウムはほとんど存在しないから、時間の制限はしなくてよい」といわれていますが、念のため1日30分を限度に帽子とマスクを着用させて、固定遊具か縄跳び、ボールかマラソンで遊ばせています。屋内に入る時は全身の埃をしっかり払ってから入るようにしています。
 本当は、もっと遊ばせたいし、のびのびと散歩をさせてあげたいのですが…。

/給食材料はどのように仕入れていますか?
遠藤園長/野菜は教会関係や千葉県組織の青年部の方の協力を得て県外から送ってもらったり、市の救援物資を分けてもらったりしていて、牛乳や肉は業者から仕入れています。足りなくなると近くのスーパーで調達しますが、内心大丈夫かどうか心配です。このような状況の中で、今後どのように材料を確保していくかを考えていかないといけません。

 


現在も毎日、園内の放射線量を測定し、記録し続けている


■職員の処遇保障

/一時的に保育事業を行うことができなかったわけですが、経営的(運営費の状況など)にはどのようにされていましたか?
遠藤園長/運営費に関しては、今回の大震災にあたり何らかの形で支援業務にあたっている園に人件費相当分については支弁する旨の通達が厚生労働省より3月末に出されていました。ただ、具体的にどれだけ支弁するかが示されたのが7月です。それを具体的に事務レベルで計算するにはどうしたらいいかを市に問い合わせたところ、前年度の運営費に対して現在何らかの支援業務に従事している職員割合で支弁するとの回答を得ました。また、子どもに対する生活費分は人数分支弁する旨の回答も得ました。ただ、その職員割合を出す際の小数点の扱い方について、県と市と我々現場との意思疎通がうまくいかなかったためなのか二転三転してしまい、全私保連からいただいた義援金を使っても単年度の赤字は確実なのに、つい3日前にも140万円位返金してほしいといわれてしまいました。そんな中でも、支援業務にあたっている職員に対してだけは何とか処遇保障はできました。

/除染の費用はどうなっていますか?
遠藤園長/除染と認められて補助の対象となるのは、表土の入れ替えと高圧洗浄にかかる費用です。芝生の入れ替えははっきりとはわかりませんが、一応申請しようと思っています。樹木の剪定とコンクリートを削ることは、今現在は除染と認められていません。



南相馬市放射線量率マップの前で語る遠藤園長

■私たちができること…

/今後の展望は?
遠藤園長/(数秒間無言の後)放射能のことは20、30年で解決できる問題ではありません。そういう状況で赤ちゃんがこの地で誕生するかというと期待できるものではないのです。経営についてはまったくわかりません。
 では、私たちができることは何か?と考えると、小さなことですが、今いる子どもたちに将来を託し、大切に丁寧に保育すること。また、今は「あれ触ってはダメ、これ触ってはダメ、ここ座ってはダメ、そこに行ってはダメ」ばかりの状況ですが、今の瞬間は今しかないわけですから、できるだけ普通にすること。
 そして、子どもたちには積極的に生きていく人間になってほしい、こういう状況だからこそ逞しく育ってほしいと願っています。

 原町聖愛保育園の皆様、ありがとうございました。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)

毎日欠かせない放射線量の測定…福島県南相馬市・伊達市 

【保育通信No.683/2012年3月号】




海岸近くにあった「福島県相馬海浜自然の家」。今も手つかずのままだ

 ■はじめに

 福島第一原発事故による放射能汚染のため、休園を強いられていた南相馬市の仲間の保育園が、10月の半ばになってようやく保育を再開したという連絡を受け、昨年12月15・16日の両日、全私保連広報部部員2名で訪ねました。訪ねたのは福島県南相馬市(警戒区域とされた20㎞圏内~緊急時避難準備区域の30㎞圏内にまたがっている)にある原町聖愛保育園と北町保育所(福島第一原発から約25㎞に位置する)、伊達市(30㎞圏外に位置する)にある霊山三育保育園の3つの保育園です。
 15日は南相馬市の2園、翌16日は伊達市の1園を訪ねました。両市とも内陸部にあり、大津波の被害はなく、地震被害と原発事故による放射能被害を受けています。とくに、市の一部が警戒区域と緊急時避難準備区域となった南相馬市の保育園は、深刻な問題を抱えています。一方、避難計画区域外にある伊達市の保育園は、除染土の処分問題を抱えています。
 訪問を終えた後、南相馬市の海岸線まで足を伸ばし、津波被害の爪痕が残る海岸線の状況をごく一部ながら直に見てきました。以下は、私たち二人が見聞きした印象に基づく報告です。

■東京などの10倍 福島駅前での線量計数値

 訪問するにあたり、現地が実際にどれくらいの放射線量があるのかを測定しながらの報告にしたかったので、全私保連事務局に放射線を図る線量計を用意してもらいました。15日朝、東北新幹線で東京駅を発ち、お昼前に福島駅に到着。駅舎外に出て、早速線量計で測定。数値は0・47mシーベルト(以下、単位は略)~0・51の値で、東京のおよそ10倍の数値でした。
 レンタカーで福島駅を出発。運転は片岡、助手席に城戸が乗り、城戸が線量計で測定しながら一路、南相馬市をめざしました。福島駅周辺も途中の街並みなどに地震の影響はまったく見られず、走行中の車の中で測る放射線も、一時的に福島駅前地点より少し高く0・5~0・6程度になったりしましたが、進んでいくうちに0・4~0・3と下がっていきました。

■人気のない飯舘村 行き交う多くの車両

 そうこうしているうちに、車は住民が避難を余儀なくされている計画的避難区域内の飯舘村にさしかかりました。道の両側にある家々の雨戸は閉まり、ドライブインやガソリンスタンドなどは閉鎖されて営業していない様子が見て取れます。人がいない中、線量計は0・6、0・8、1・0、1・3、1・5と、どんどん上昇を続けていき、最大で1・9を超えました。
 人気のない飯舘村内の道路ですが、車線の両側を行き交う車は自衛隊の車両をはじめ、トラック、バス、乗用車と、ひっきりなしに行き交っています。飯舘村を通り過ぎる頃には線量計の数値は下がりはじめ、南相馬市に入る頃には0・4程度になり、車が目当ての原町に入る頃には、0・3~0・1に下がり、福島駅周辺よりずっと低い数値になっていました。

■9か月ぶりの保育園再開

 南相馬市には認可保育園が10園(民間4園、公立6園)あります。民間4園のうち1園は、北町保育所を運営している社会福祉法人福陽会が平成23年度の4月から新しく運営を始める予定で建てた3歳未満児専門園です。ところが、直前の原発事故による放射能拡散によって、南相馬市も一時避難を余儀なくされ、全園が一時閉鎖しなくてはならなくなりました。
 3・11から9か月経った10月11日、まったく偶然に、同じ日に原町聖愛保育園と北町保育所は保育を再開しました。もう1園の民間保育園も再開しましたが、新設の3歳未満児専門の保育園は開園できないままで、公立保育園はまったく再開していません。

図1 2011年4月20日午後 各地で観測された大気中の放射線量
 
 
■市内の児童数は大震災前の2割に激減

 小さな子どもたちを育てている多くの親子は、放射能被害から逃れるために、市外・県外に今も避難しているため、南相馬市全体の就学前の児童数は、3・11の大震災による原発事故前の2割に激減しているということです。
 再開した原町聖愛保育園の保育児童数は、3・11当日の79名が45名となり、その内の15名は震災前に別の保育園に行っていた子どもたちということでした。
 公立保育園は一園も再開していない状況で、定員60名の北町保育所は34名での再開、もう1園の民間保育園は70名での再開となり、3園合わせてわずかに149名の園児数になっていました。

■市への要望 公立園を再開しないでください!

 このような状況なので、公立保育園が順次再開していくことになると、すべての保育園が運営に行き詰まり、共倒れになってしまいます。
 市の職員である公立保育園の場合、保育士たちは他の部署に配置転換して、市職員として職に就いていることができますが、法人立の保育園はそのような対応ができません。そのような事態なので、いわば緊急避難的な対応として、南相馬市に対して「公立保育園を再開しないでください」という要望をしているということです。
 同じ民間保育園の経営にあたっている私たちとしても、このような要望をしなくてはならない苦しい胸の内はよく理解できます。
 例年であれば、来年度の入所決定事務も進んでいる頃ですが、伺った12月の半ばでも、市の入所決定事務はできないままになっていました。南相馬市としても、むずかしい判断をしなくてはならない状況にあるのです。
 


津波被害の痕跡が残る南相馬市の海外線(右・2011年12月15日、左・2011年5月10日に撮影)

 

 

■放射線量の測定が毎日の欠かせない日課

 訪ねた3園に共通している毎日の日課に、放射線量を測定し、記録し、その数値を保護者に知らせる仕事があります。
 3園はそれぞれに毎日時間と測定箇所を決め、丹念に放射線量を測定し、記録しています。そして、毎日の放射線量を保護者に知らせるということが、欠かせない日課として加わってきました。
 これは、おそらく福島県内の保育園が、3・11後に欠かすことができなくなった、悲しくて、つらくて、憤怒を覚えても、愛する子どもたちのためにやらざるをえない業務です。本来であるなら、まったくやる必要のない仕事なのです。
 測定する時間や測定する場所は、各園の状況によって違いますが、一時避難を強いられている南相馬市と30㎞圏外にあるため住民が避難していない伊達市とでは、測定値に逆転現象が起きていました。
 南相馬市の市役所横を車で通った時の線量は0・1~0・15程度でした。原町と北町の両方の園での測定値もほぼ変わらず、0・1~0・3の値の中にありました。一方、伊達市の保育園で測った線量は0・4~0・5の測定値で、福島駅周辺での測定値とほとんど同じ数値でした。しかし、園の雨どいの下周辺を測定したら1・0を超える線量を測定しました。
 風向きの関係なのでしょうが、30㎞圏外にあっても30㎞圏内より放射線量が多く検出されるという事実を実際に目にし、政府の機械的な線引きが、実態にそぐわないということが現実であるということを改めて感じました。
 
■政府の放射能対策の線引き状況    

 ここで、原発事故発生後に政府が避難を示した対応策を見てみます。
 南相馬市は、市の南側が警戒区域の20㎞圏内、中央部が緊急時避難準備区域の20~30㎞圏内にあり、北部が30㎞圏外に位置しています。伊達市は、計画的避難区域になった飯舘村の北に位置し、50㎞圏内に位置しています。このような地理関係にある南相馬市と伊達市とでは、市民生活に大きな違いがあり、当然のことながら、両市の保育園もその影響にかなりの違いがありました。
 次号では、具体的な状況をご紹介します。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)



図2 原発事故直後の政府の避難指示