公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

ルポ*東日本大震災・被災地の保育園 その2

毎日欠かせない放射線量の測定…福島県南相馬市・伊達市 

【保育通信No.683/2012年3月号】




海岸近くにあった「福島県相馬海浜自然の家」。今も手つかずのままだ

 ■はじめに

 福島第一原発事故による放射能汚染のため、休園を強いられていた南相馬市の仲間の保育園が、10月の半ばになってようやく保育を再開したという連絡を受け、昨年12月15・16日の両日、全私保連広報部部員2名で訪ねました。訪ねたのは福島県南相馬市(警戒区域とされた20㎞圏内~緊急時避難準備区域の30㎞圏内にまたがっている)にある原町聖愛保育園と北町保育所(福島第一原発から約25㎞に位置する)、伊達市(30㎞圏外に位置する)にある霊山三育保育園の3つの保育園です。
 15日は南相馬市の2園、翌16日は伊達市の1園を訪ねました。両市とも内陸部にあり、大津波の被害はなく、地震被害と原発事故による放射能被害を受けています。とくに、市の一部が警戒区域と緊急時避難準備区域となった南相馬市の保育園は、深刻な問題を抱えています。一方、避難計画区域外にある伊達市の保育園は、除染土の処分問題を抱えています。
 訪問を終えた後、南相馬市の海岸線まで足を伸ばし、津波被害の爪痕が残る海岸線の状況をごく一部ながら直に見てきました。以下は、私たち二人が見聞きした印象に基づく報告です。

■東京などの10倍 福島駅前での線量計数値

 訪問するにあたり、現地が実際にどれくらいの放射線量があるのかを測定しながらの報告にしたかったので、全私保連事務局に放射線を図る線量計を用意してもらいました。15日朝、東北新幹線で東京駅を発ち、お昼前に福島駅に到着。駅舎外に出て、早速線量計で測定。数値は0・47mシーベルト(以下、単位は略)~0・51の値で、東京のおよそ10倍の数値でした。
 レンタカーで福島駅を出発。運転は片岡、助手席に城戸が乗り、城戸が線量計で測定しながら一路、南相馬市をめざしました。福島駅周辺も途中の街並みなどに地震の影響はまったく見られず、走行中の車の中で測る放射線も、一時的に福島駅前地点より少し高く0・5~0・6程度になったりしましたが、進んでいくうちに0・4~0・3と下がっていきました。

■人気のない飯舘村 行き交う多くの車両

 そうこうしているうちに、車は住民が避難を余儀なくされている計画的避難区域内の飯舘村にさしかかりました。道の両側にある家々の雨戸は閉まり、ドライブインやガソリンスタンドなどは閉鎖されて営業していない様子が見て取れます。人がいない中、線量計は0・6、0・8、1・0、1・3、1・5と、どんどん上昇を続けていき、最大で1・9を超えました。
 人気のない飯舘村内の道路ですが、車線の両側を行き交う車は自衛隊の車両をはじめ、トラック、バス、乗用車と、ひっきりなしに行き交っています。飯舘村を通り過ぎる頃には線量計の数値は下がりはじめ、南相馬市に入る頃には0・4程度になり、車が目当ての原町に入る頃には、0・3~0・1に下がり、福島駅周辺よりずっと低い数値になっていました。

■9か月ぶりの保育園再開

 南相馬市には認可保育園が10園(民間4園、公立6園)あります。民間4園のうち1園は、北町保育所を運営している社会福祉法人福陽会が平成23年度の4月から新しく運営を始める予定で建てた3歳未満児専門園です。ところが、直前の原発事故による放射能拡散によって、南相馬市も一時避難を余儀なくされ、全園が一時閉鎖しなくてはならなくなりました。
 3・11から9か月経った10月11日、まったく偶然に、同じ日に原町聖愛保育園と北町保育所は保育を再開しました。もう1園の民間保育園も再開しましたが、新設の3歳未満児専門の保育園は開園できないままで、公立保育園はまったく再開していません。

図1 2011年4月20日午後 各地で観測された大気中の放射線量
 
 
■市内の児童数は大震災前の2割に激減

 小さな子どもたちを育てている多くの親子は、放射能被害から逃れるために、市外・県外に今も避難しているため、南相馬市全体の就学前の児童数は、3・11の大震災による原発事故前の2割に激減しているということです。
 再開した原町聖愛保育園の保育児童数は、3・11当日の79名が45名となり、その内の15名は震災前に別の保育園に行っていた子どもたちということでした。
 公立保育園は一園も再開していない状況で、定員60名の北町保育所は34名での再開、もう1園の民間保育園は70名での再開となり、3園合わせてわずかに149名の園児数になっていました。

■市への要望 公立園を再開しないでください!

 このような状況なので、公立保育園が順次再開していくことになると、すべての保育園が運営に行き詰まり、共倒れになってしまいます。
 市の職員である公立保育園の場合、保育士たちは他の部署に配置転換して、市職員として職に就いていることができますが、法人立の保育園はそのような対応ができません。そのような事態なので、いわば緊急避難的な対応として、南相馬市に対して「公立保育園を再開しないでください」という要望をしているということです。
 同じ民間保育園の経営にあたっている私たちとしても、このような要望をしなくてはならない苦しい胸の内はよく理解できます。
 例年であれば、来年度の入所決定事務も進んでいる頃ですが、伺った12月の半ばでも、市の入所決定事務はできないままになっていました。南相馬市としても、むずかしい判断をしなくてはならない状況にあるのです。
 


津波被害の痕跡が残る南相馬市の海外線(右・2011年12月15日、左・2011年5月10日に撮影)

 

 

■放射線量の測定が毎日の欠かせない日課

 訪ねた3園に共通している毎日の日課に、放射線量を測定し、記録し、その数値を保護者に知らせる仕事があります。
 3園はそれぞれに毎日時間と測定箇所を決め、丹念に放射線量を測定し、記録しています。そして、毎日の放射線量を保護者に知らせるということが、欠かせない日課として加わってきました。
 これは、おそらく福島県内の保育園が、3・11後に欠かすことができなくなった、悲しくて、つらくて、憤怒を覚えても、愛する子どもたちのためにやらざるをえない業務です。本来であるなら、まったくやる必要のない仕事なのです。
 測定する時間や測定する場所は、各園の状況によって違いますが、一時避難を強いられている南相馬市と30㎞圏外にあるため住民が避難していない伊達市とでは、測定値に逆転現象が起きていました。
 南相馬市の市役所横を車で通った時の線量は0・1~0・15程度でした。原町と北町の両方の園での測定値もほぼ変わらず、0・1~0・3の値の中にありました。一方、伊達市の保育園で測った線量は0・4~0・5の測定値で、福島駅周辺での測定値とほとんど同じ数値でした。しかし、園の雨どいの下周辺を測定したら1・0を超える線量を測定しました。
 風向きの関係なのでしょうが、30㎞圏外にあっても30㎞圏内より放射線量が多く検出されるという事実を実際に目にし、政府の機械的な線引きが、実態にそぐわないということが現実であるということを改めて感じました。
 
■政府の放射能対策の線引き状況    

 ここで、原発事故発生後に政府が避難を示した対応策を見てみます。
 南相馬市は、市の南側が警戒区域の20㎞圏内、中央部が緊急時避難準備区域の20~30㎞圏内にあり、北部が30㎞圏外に位置しています。伊達市は、計画的避難区域になった飯舘村の北に位置し、50㎞圏内に位置しています。このような地理関係にある南相馬市と伊達市とでは、市民生活に大きな違いがあり、当然のことながら、両市の保育園もその影響にかなりの違いがありました。
 次号では、具体的な状況をご紹介します。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)



図2 原発事故直後の政府の避難指示