公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

Reportage No.6 震災と子どもの生活

第37回保育総合研修会 第7分科会(特別分科会)より
震災と子どもの生活

 【保育通信No.684/2012年4月号】

 2011年3月11日。その日を境に東北を、日本を変えてしまった未曾有の大震災。あれから1年以上が過ぎ、その被害状況はあらゆるツールを通して見知るところとなっている。しかし、保育園でその時どうしていて、どのような対応が行われていたかはあまり発表されていない。そこで、この分科会では宮城学院女子大学教授の磯部裕子氏、宮城県亘理町立亘理保育所前所長の藤本由紀子氏を迎え、実体験をもとにした体験談や震災以後の取り組みなどをご教授いただいた。

■保育園の被害状況

 まず初めに、磯部氏は地震発生当時のご自身の体験談を話された後、保育園の被害状況を報告された。
 岩手・宮城・福島で全半壊の施設が78施設、保育中に亡くなった園児が宮城で3名(しかし当時の新聞で保育園での死者数は0名とされ、保育園に対する賛辞の記事が載ったことで、3名が亡くなった当該保育園の職員はとても苦しんだという)、また保育外(引き渡し後)で亡くなった園児は岩手で25名(不明者16名)、宮城で53名(不明者15名)、福島で2名(不明者0名)の計83名(不明者31名)という報告がなされた。
 次に、幾つかの被災した園の様子やスライド、映像が紹介された。

●宮城県利府町にあるA保育園
 沿岸部から離れていたため津波被害はなし。しかし、ある部屋の天井がまるごと落ちてきた。幸いにも、その部屋に園児はいなかったため怪我人はなし。

●宮城県石巻市にあるB保育所
 避難する場所がなく、どこに逃げようか思案しているうちに津波に襲われる。この保育所は平屋建てのため、上昇する水位に初めは机に上り、次に棚の上、最後は窓枠に立って両手を上げるように子どもたちを持ち上げた。最終的には首の辺りまで水位が上がった。

●宮城県気仙沼市一景島保育所
 (この保育所は海から200m位の場所にある。じつは大震災の起こる2日前、9日の昼頃に三陸沖を震源とする震度5弱の地震が発生。60㎝の津波が起こったという。その時にテレビ局の取材を受け、11日に起きた地震により、その後また取材を受けている。この分科会では、その時に放送された映像が流れた)
 地震発生当時、午睡中であったため、布団を園児に被せて地震がおさまるのを待つ。5分後、園児71名を連れて近くにある災害時避難場所に指定されている公民館に避難する(この保育所では、普段から災害発生時には地域の人たちに助けに来てもらえるようにお願いしてあったために、地震発生後、すぐに近くの工場職員が駆けつけ避難を手伝ってくれた)。間もなくして保護者が迎えに来たが、避難マニュアルに従い、保護者とともに帰宅させずに公民館に留まった(結果的に、これが子どもと保護者の命を救うことになった)。
 その時は2階にいたが、10mを超える大津波警報が出ていたため、2階でも危ないと判断して3階に移動。その後津波は押し寄せ子どもたちが悲鳴をあげる中、2階は水没し、3階も危なくなってきた。そこで屋上にある貯水タンクに避難をしようとするが、屋上へは梯子を登るしかなく、一段目の高さが1m以上あったため、自力で登ることができない乳児などは大人が一人ひとりおぶるなどして全員を屋上まで引きあげた。
 日も暮れ雪も降る中、カーテンで寒さを凌いでいるのも束の間、目の前に炎が迫る。水面上に洩れた石油等に引火し、周囲は火の海となっていた。「子どもたちには笑顔で大丈夫といっていたが、内心はもう駄目だと思っていた」と、一景島保育所の先生は語る。炎による煙ですすだらけになりながら、とにかく耐えるしかない状況で公民館に備蓄されていた水と乾パンを見つけ、子どもたちに優先的に与えて救助を待った。
 そして翌朝、ヘリコプターでの救助が始まるが、燃料の関係で0歳児を優先に50名しか救助されず、全員が救助されたのは翌13日だった。「命があったのが不思議なくらい」、園長先生はそう述べていた。

■藤木氏の体験談

 藤本氏が勤めていた亘理保育所は仙台の南東部に位置し、沿岸部からは7~8㎞離れたいたため、津波の被害はなかったという。
 地震発生時は午睡が終わろうかという時で、真っ先に警報機を鳴らして危険を知らせる。子どもたちはパジャマのままで防寒具のみを持ち、避難を始めた。しかし外は寒かったため、余震の合間に園内に着替えを取りにいくなどして保護者の帰りを待った。その間、子どもたちは泣きもせず、整然としていた。
 情報源の防災無線(電源は無事だったのでテレビなどで確認できたはずだが、混乱していて防災無線しか聞かなかった)からは津波の到来が繰り返し流されていた。しかしその規模や到達時間がわからず、不安な時間をすごしていた。そうしていると保育所の前にある用水路が増水を始め、また通りすがりの人から生協(1㎞以上先)まで津波が来ていると聞かされ、念のため近所の少し高台にある工場へ避難した。そして17時頃、保育所に戻り保護者のお迎えを待った。最後のお迎えは21時半だったが、その間にも余震は続き、大きめの余震の時にはベッドごと寝ている子どもを外に連れ出したが、子どもはまったく起きなかった。
 その夜、職員は全員保育所に泊まり、翌日に破損状況を確認し、役所へ報告した。破損状況は、天井が落ちる、雨樋が壊れる、設置スピーカーが落ちて壊れる、灯油が漏れ出すなど、修理をしないと保育を再開できない状況にあったので、14日より休所となった。そして、その日から職員は避難所勤務を命じられた。

■保育園・幼稚園の再生を

 保育の再開については地域間で差が出ていた。藤本氏がいた亘理町は宮城県内で最も早く保育を再開した地域で、3月30日には年長児の修了式を行い、4月4日からは被災した保育所と合同で保育をスタートさせている。しかし、2つの保育所が一緒に保育を行うむずかしさ、給食の問題、保育をする場所の確保など、さまざまな問題が生じていた。
 こういう状況下にあり、学校をどのように再生しようかという話はいろいろなところであがっていたようだが、保育所や幼稚園の再生の話は二の次になっていた。そこで、磯部氏が中心となり「みやぎ・わらすっこプロジェクト」を立ちあげ、保育園や幼稚園の再生への手伝いしようと動き出した。
 まずは、現場に必要な物資を届けることから始めたという。その話を磯部氏のネットワークを活用して全国へ呼び掛けると、保育現場に必要な物が瞬く間に届き、それを仕分けし、各園に必要な物を届ける作業を続けた(届けた物の中には「温かい食事」も含まれていて、週に1度届けていた。その材料費は義援金から捻出した)。
 そのさまざまな支援物資には感謝の意を示されていたが、同じ保育の仕事をしている人なのに破れている絵本や壊れた椅子、その他心無い物を送ってくる人がいたらしく、複雑な思いになったと述べられた。ボランティアについても、人出は足りているが申し出があると断るのも憚られ、その手配に労力を割かねばならないこともあったようだ。

■今回の震災の教訓をいかそう

 磯部氏は、このような支援活動を通して感じたこと、考えさせられたことを次のように話された。
 「まず感じたことは、今の日本の保育制度は二元化(保育園と幼稚園)ではなく四元化、つまり、公私立の保育園と公私立の幼稚園である。例えば、公立の幼稚園団体から送られてきた義援金や物資は公立の幼稚園に届けてほしい、私立の保育団体から送られてきたものは私立の保育園にという指定があった。
 次に考えさせられたことは、『何もない』という状況で一体何が保育に必要なのか?また、何もない状況でも保育ができるとしたら、一体どんなことをすればいいのだろう?今まで保育の場に当たり前にあったもの(保育室や園庭、遊具など)が、そもそもどういう意味を持っていたのか?ということだった」
 続いて、今回の震災の教訓として、災害への備えとしてどのようなことを確認しておくべきかを話され、常識にとらわれない、マニュアルの再考(避難場所や避難訓練の方法、備蓄用品の保管場所、園児の引き渡しのタイミング)、情報収集の手段などを挙げられた。
 午前中のまとめとして、地域のネットワークの重要性をあげられた。保育園の子どもたちを守るのは保育士であるが、保育士にも限界がある。日頃から地域の人たちとのコミュニケーションや連携を取ることで、いざという時に手を差し伸べてもらえる。このことがいかに大切であるか。そして、大人は子どもから元気をもらっている。子どもが元気だと大人も元気になれるということを非常に強く感じた、と話された。
 午後は、午前中に話すことができなかった部分と、グループワークとして参加者どうしの情報交換、そして「保育園としてどんな支援ができるか」と題し、「子どもとともに」「園として職員とともに」「保護者、地域とともに」「個人として」の4つのカテゴリーについて話し合った。
 最後に、今回の震災では多くの命を失ったが同時に生まれてきた命もある、という意味も込めて3月11日生まれの子どもたちの映像が流れ、終了した。

(片岡敬樹/全私保連広報部)

 保育所の被災状況(「河北新報」2011年10月4日)


注 3県まとめ。データーは認可、認可外、へき地の各保育所を含む。保育中とは、保育施設で園児を預かっている状態を指す。