公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

液状化現象による被害とその後…千葉県浦安市 

【保育通信No.682/2012年2月号】


地面が隆起し、地割れが生じた園庭(2011年3月12日撮影)


■ はじめに

 2011年3月11日に起こった大震災。大地震により引き起こされた大津波によって東日本のいたるところが甚大な被害を受けた。発生当初、そのあまりにも衝撃的な状況から東北地方太平洋沿岸の被害状況が主に報道されたが、関東でも地震・津波による被害が報告されている。
 千葉県浦安市がその1つ。酷い液状化のため時々テレビのワイドショー等で取りあげられるが、その状況はあまり知られていない。今回、社会福祉法人わかみや福祉会 浦安市立弁天保育園(公設民営/定員110名・現員128名)が取材協力をいただけるとの返事を受け、訪問した。
 最寄りのJR京葉線舞浜駅からタクシーで保育園に向かうとほどなく「揺れますから気をつけてください」。すると車体が上下に揺れる。「これでも、かなりよくなったんですよ」とタクシーの運転手。外を見ると、道路や歩道の縁石がはっきりと波を打っている。
 保育園に到着し、すぐに目にとまったのは玄関の段差。わずかではあったが扉と踊り場の部分がずれている。また壁の下部にはひびが入っていて、コンクリートが割れていた。早速、岩間真佐代園長に、震災発生当時の様子を伺った。

 


液状化で泥水が噴き出した園庭(2011年3月12日撮影)

 

■3月11日 大震災当日

  地震発生直後、大きな揺れにより園庭は液状化が起こり、同時に地割れも発生し、そこから泥水が噴き出してきた。揺れが収まるのを待って広域避難所である最寄りの富岡中央公園に避難を開始。
 その時の子どもたちの様子を、「多少泣いている子もいたが、毎月の避難訓練通り黙々と避難をしていた。きっと心の中では怖かったと思うが、大人の後を必死についてくる感じだった。いろいろなことを考えることができる分、たぶん大人のほうが動揺もして落ち着いていなかったのかもしれない」と岩間園長は語る。
 しかし、その公園の入口にさしかかった時、「メキメキとコンクリートが割れていくのを目の当たりにした」。そして、余震のたびに地割れがひどくなるのがわかり、「その公園にあったナイター照明用の電柱も、最初の地震で傾いて、それが余震のたびにグァーングァーンという音を発しながら傾きが大きくなっていった」と、その時の様子を語ってくださった。
 公園内にも大人が跨ぐのもやっとの地割れがあり、ここへの避難は無理と思っていたところに保護者が車で駆けつけてくれた。その保護者は近くの小学校へ避難するための連絡や園児を移動させるために近所への手助けや呼びかけをしてくれ、それに呼応した近隣の方やたまたま通りかかった観光バスにも援助をしてもらい、避難に向かった公園とは逆に位置する浦安市立見明川小学校へ無事に避難することができた。
 到着直後は体育館へ避難をしたが、津波の危険があるということで校舎3階へ移動。そこでは周囲の方の配慮からマットを敷いてもらい、子どもたちは横になったり、ビデオを見るなどして落ち着いてすごせたという。因みに津波は浦安にも到達ていたようで、高さ2m、一部堤防や防波堤が破損したらしいが、そこで食い止められたようだ。
 そのようにして学校で待機(避難)を始めたが、保護者がお迎えに来るまでには時間がかかるだろうと予想し、数名の職員がおむつや非常食を取りに、また園舎に避難先の掲示や保護者にメールで避難先を知らせるために数度園舎に帰ったという。
 深夜にはすべての保護者が迎えに来たが、家の状態がわからないため、迎えに来てそのまま学校に泊まった家庭もあった。職員は家族がいる人や帰れる範囲に家がある人は帰り、電車通勤や責任のある立場の人はそのまま学校に泊まった。この日時点で電気や電話は使えていた(電話はほとんどつながらなかった)が、上下水道やガスは不通となったままだった。



現在の園庭のようす


■3月23日 保育再開

  朝、おにぎり等の配給をもらった後、午前8時過ぎに園舎に戻る。しかし、園庭(液状化や地面の隆起)や園舎内外(併設している支援センターとの間に段差が生じ、それをつないでいる渡り廊下がずれるようにひび割れ、破損が起こったこと、下駄箱等の倒壊など)の状況から、とても保育ができる状態ではないので、保護者にメールで1週間は休園すること、13日(日曜日)に園庭の復旧作業をする旨を知らせる。
 そして13日に職員で園庭の復旧作業をしていると、メールを見た保護者やボランティアの人が手伝いに来てくれて、そのお陰もあり、噴き出た泥の片づけは早く処理ができた。
 そうして破損した箇所の修理や保育再開に向けての準備をして1週間経った時、市役所から園の敷地に仮設トイレを設置する連絡が入った。これは、保育園児向けというよりは近隣住民のためという意味合いのもの。ただ、これをきっかけに「どうにかして早く保育を再開できないか」と考えたという(この時点でもまだガス、上下水道は不通)。
 市にその旨を伝えると、再開に向けて具体的な対処方法を示すようにいわれたため、各保育室に電気カーペットを敷く、昼食の弁当と水筒の用意を保護者へお願いする、仮設トイレを利用できない小さい子用のトイレには吸水性の優れたシートを敷く、大量の除菌用ウェットティッシュを用意するなどを提案したところ、翌週に市から保育再開の許可が下りた。そのため、地震発生から約2週間経過した3月23日にやっと保育を再開することができた。市内の他の園も、被害が大きかった2園の除き、同時期に保育を再開している。
 しかし、震災以前のようにはいかず、さまざまな不便や苦労はあった。
 保育再開の翌日にはガスが使えるようになり、また上水道も使える状態ではあったが、下水道が使えなかったため(下水道は4月8日から使えるようになった)、使用した水を流すことができない。したがって、子どもたちがうっかり上水道を使用してしまう可能性もあるため、水道のバルブを閉めて利用できないようにした。そのため、水を使う際は給水車まで水を汲みに行ったり、昼食も弁当のため、おやつはせめて温かいものをと、釜戸で火を焚き、湯を沸かしたりした。
 その際も、保護者の方が水汲みのための車や、火を焚くための薪をたくさん提供してくださった。またテレビの取材を受けた後、地方の方から水が届けられた(この時は原発事故よる放射能汚染が報道された直後だった)。さらに、液状化で噴き出した泥が2週間位すると乾き始め、道路などから舞う砂ぼこりが凄かったため、マスクなしではいられない状態だった。
 このようなことがありながらも、4月11日からは給食も再開し、現在に至っている。
 時間的な流れは以上であるが、その他に幾つかのことを訊ねてみた。

/新年度が始まった時の園児在籍状況は?
/在園児は変わらずに登園していた。新入園児はその3分の1が4月中は登園して来なかった。併設している子育て支援センターでの一時保育も4月中の利用はほとんどなかったが、給食を再開した後、徐々に増えてきた。

/困ったことは?
/やはり、下水道が長期間使えなかったこと。水が使えれば何とかなると思っていたが、排水できないことがこんなに不便だとは。現在(9月28日時点)も支援センターは下水道が使えず、蛇口の下にバケツを置いて手洗いなどの使用後の水はそこに溜めている(支援センターの下水道工事は今年度内には行う予定)。
 それと計画停電で、保育再開後2回位あった。しかし、浦安が被災地だと認められた後はなくなった。
 あと困るというより心配なのが、余震や台風が来るたびに壁がちょっとずつ崩れて亀裂が入ること。早く修繕をしないと次に大きな地震や天災があった時にどうなってしまうのかが心配。

/今回のことで得た教訓は?
/日頃の避難訓練で行ったことでも、役立つことと役立たないことがわかったこと。今まではメール配信にあたり、全保護者からアドレス等を聞いていた訳ではなかったが、新年度からはすべての保護者から知らせてもらうようにしたこと、備蓄用の食料や水を多くして、3日間何も配給がなくても保育をしていけるように整備したこと、など。(下記の献立表を参照)



建物間がズレ、小さなすべり台のようになった渡り廊下


■保護者や地域の方の支えを実感

 インタビュー終了後、施設内を見学させてもらった。お話の中に出てきた通り、地面が隆起した庭やそれによる建物間の段差のずれ。ずれた渡り廊下は小さい子には、ちょっとすべり台のようになっていた。また地盤沈下により、2階からの避難用すべり台とそれを支えている柱に隙間ができてしまっている箇所もあった。
 インタビューの最後に印象的な一言があった。
 「震災前の日常では、いつも私たちが(サービスなどを)提供するばかりと思い込んでいた部分があったが、実際はこんなにも多くの保護者の方や地域の方に支えられ、助けられている。震災そのものは経験したくなかったが、その後に体験した人と人との支え合いや心の触れ合いはとてもよい経験となった。
 それと、子どもたちの強さを凄く感じることができた。いつもと変わらない明るい子どもたちに、私たち大人はとても救われた」 


下水道が使えないため、バケツに排水をためている(子育て支援センター)



■おわりに

  今回の震災はさまざまなことを考えさせられた。目で見ること、耳から聞こえてくることは、頭では理解はできる。東北の津波被害を映像として盛んにテレビで報じていたが、「実際にその場での様子は映像などとは比べものにならない」と現地を訪れた人は口々にいう。今回訪れた浦安市も映像を通して見知っていたが、東北の被災地との程度の違いはあれ、行って初めて「液状化の被害はこんなに凄かったのか」と感じる。
 時間が経過すると過去のことになりがちであるが、自然災害はいつ、どこで起こるかわからない。まずは起こった時の迅速な生命の確保が大事であるが、その後のことも見通した対策が必要だと実感した今回の取材であった。
 最後に、取材にご協力いただいた岩間園長をはじめ弁天保育園の職員の皆様、本当にありがとうございました。

(片岡敬樹/全私保連広報部) 

改定版:災害時の献立表 (乳児60名・幼児80名・職員40名分)

食 品 乳 児 幼 児 職 員

1回目

クラッカー 5枚 8枚 8枚 100cc
2回目 アルファ米 1/4袋 1/3袋 1/2袋 100cc
3回目

乾パン

黄桃缶

5個

2個

7個

3個

7個

3個

100cc
4回目

クラッカー

豚汁

3枚

50cc

5枚

50cc

5枚

50cc

100cc
5回目 アルファ米 1/4袋 1/3袋 1/2袋 100cc
6回目

乾パン

みかん缶

5個

3個

7個

5個

7個

5個

100cc
7回目

乾パン

黄桃缶

5個

2個

8個

3個

10個

3個

100cc
8回目 アルファ米 1/4袋 1/3袋 1/2袋 100cc
9回目 乾パン 5個 7個 7個 100cc

*離乳食の乳児は、1回分は、おかゆ1/3缶/人とミルク100cc。
*水は毎食1人100ccとする。
*貯水槽の水の使用可能状況を確認し、可能ならば、ご飯炊きやスパゲッティを茄でる水は貯水槽の水を使う(貯水槽の水は3日分ある)。
*状況により、炊き出しが可能になったら、炊き出しを行う。炊き出しの練習は毎年2回行うこととする。
*備蓄物品で、給食に使えるものは先入れ先出しを行い、常に常備しておく状態にする。
*毎月、備蓄食材が備わっているか確認を行う。
*食品庫に残っている延長保育用おやつなどを持ち出し、非常食とする(献立外)。
*アルファ米は、1袋に付き170mlの水を入れる。
*おたま・トング等の調理器具は状況に応じて運び出し、使用する。
*乾パン・最低83缶、クラッカー・最低2820枚(L缶=23缶)は必要である。

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