公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

ルポ*東日本大震災・被災地の保育園 その4

今一番の支援は“忘れられないこと” “覚えていてもらうこと”
…福島県南相馬市・北町保育所

【保育通信No.684/2012年4月号】



北町保育所の全景
 

■前号からの続き

 原町聖愛保育園を後にして、10分位で次の訪問先である北町保育所に到着。正門から砂地の園庭を通り園舎玄関に入りましたが、正門から玄関までのおよそ20mのその道筋には幅60~70㎝位の緑の絨毯らしきものが敷かれ、送迎はその“緑の細道”の上を歩いて行くようにしてありました。原町聖愛保育園と同じく、砂を園内に持ち込まないための工夫と思われます。
近藤裕理事長兼所長(以下、近藤裕、敬称略)、近藤啓一副所長(以下、近藤啓、敬称略)の出迎えを受け、奥にあるホールでお話を伺いました。

■辛いこと

/今回の震災により現在大変な状況に置かれた原町聖愛保育園の遠藤園長からもお聞きしましたが、こちらの状況はいかがです?
近藤啓/そうですね。住環境はまだまだ落ち着いていないのが現実ですが、園の管理者としての立場から今一番問題だと思っていることは、現在全国にある私立認可保育園の中でこのような状況に置かれているのは南相馬市にある4園のみ(実際には20㎞圏内に私立認可保育園が1園あり、これを合わせると5園だが、あまりつながりもなく、現在連絡が取れていない)であり、国や県の政策から完全に抜け落ちてしまっている、ということです。運営費の算出についても人件費を絡めた行政からの指示が右往左往している状況です(この時点で97万円ほどの運営費返還を求められていて、この返還が完了していないため12月分の運営費は差し押さえられていた)。人が資本の仕事であり、子どもたちがいつ園に戻ってくるかわからない中、雇用は確保しておかなければならないし、そう簡単に合理化などできるわけないのです。
7月頃になりようやく運営費が振り込まれましたが、それまでは無収入状態だったので、園に残り働いていた職員の給与について、4月は通常の6割、5月は8割、6月からは満額を支払いました(6月になりそのうちに運営費が支払われるとの情報があり、それに先立って満額支給にした)。また、小さい子どもを抱えた職員等避難をしていた職員には、休業補償という意味で6割支給していました(この休業補償は園が再開する9月まで支給)。ただ、10月に園を再開した時点で戻って来れなかった職員には退職という形をとってもらいました。本当はそのようにしたくなかったのですが、支払い続けるのはむずかしい状況でした。
年月の長短はあれ、時間をかけて育てた職員たちを何の落ち度もないのに手放さなくていけないのは相当辛かったし、何より園にとってかなりの損失でした。戻りたくても戻れない職員に戻ることの強制は、やはりできませんでした。

/地震による建物等の被害はいかがでしたか?
近藤裕/この建物は耐震を考慮して建設したので、被害はまったくありませんでした。

/震災時に在籍していた園児数と現在の園児数はどれくらいですか?
近藤啓/震災時には79名の在籍でした。そして2011年4月1日に70名でスタートする予定でしたがそれは叶わず、5月6日よりスタートさせた「なかよし保育園」(3園合同の保育園/本誌4月号参照)での北町保育所の園児は6名です。なかよし保育園が終了する頃の最終的な人数は16名です(なかよし保育園全体での最終的な人数は97名)。
10月9日に23年度の卒園式を行い、10月11日に園を再開 *1、現在は34名の在籍です。ただ、このうち15名は以前に他の保育園や幼稚園に在籍していた子どもたちです。つまり、北町保育所の元々の園児は19名しかいません。

*1 卒園式の日も園再開の日も、原町聖愛保育園と図らずもまったく偶然に同じ日になったと聞いた時、何か運命の糸のようなものを感じました。


/今後、園児やその家族が帰ってくるという見通しはないとお聞きしていますが。
近藤啓/現在避難している家庭に「帰って来て」といえないことがとても辛いです。園庭や園舎はすべて除染しました。空間線量は保育所の敷地内であれば0・1~0・15μsvです。しかし、敷地外はその3倍位あります。そのため健康への影響を考えると、「帰って来て」とはとてもいえないのです。とにかく今は目の前にいる子どもたちに集中しよう、一生懸命ケアをしていこうと職員と話し合いました。
 


福島第一原発からの位置


■「津波ごっこ」をする子どもたち

/現在の子どもたちの精神状態はどうですか?
近藤啓/とても落ち着いています。子どもたちは避難所など、人が多い場所や大人の中で周囲を気にしながらすごしていたので、なかよし保育園のあった公民館のような狭くて暗い場所でもとても明るくすごしていました。その中でとても印象的だったのが、どこの避難場所でもあった、いわゆる「津波ごっこ」が起きたことです。「津波ごっこ」をする子どもたちの中には、直接津波の被害を受けていない子もいました。おそらく、テレビで繰り返し流される映像を見てきた影響と、地震発生後に起きた自身の環境変化を「津波ごっこ」という形で自分なりに理解しようとしているのではないかと思います。
しかし、その行為に対して干渉しないほうがいいといわれていたので見守っていたし、そのように表現できるということは、自分を出せているということだと思っているのでプラスにとらえています。ただ、この現象で不思議なのは、各地の避難所で短期間、同時期に起こり、同時期に収束したこと。理屈では説明できない、時間の経過がそうさせたのかと思っています。

/現在、外遊びはどのようにしていますか?
近藤啓/マスクをさせて、1日30分を限度に遊ばせています。遊具は保護者から不安の声が出ているので使用は控え、かけっこを中心に鬼ごっこや散歩、マラソンをしています。
砂を口に入れてしまう危険がある3歳未満児はサークル車に載せて散歩をしていますが、その散歩コースも事前に線量計で測ります。同じ歩道内でも50~60㎝違うだけで数値が変わってしまうため、できるだけ線量値が低い場所を選んで通っています。このような対応をして保護者には理解してもらっていますが、どうしても外には出さないでほしいという保護者もいて、その子だけは散歩の間も室内で保育をしています。

 

屋外活動と放射線量を毎日記録、掲示している


■何が安心で安全なのか 先がまったく見通せない…

近藤啓/敷地内の空間線量は先述の通りで、それは地表1・5mの地点を30秒おきに3回計測してその平均を公表しているのですが、その保護者はその数値を信用できないようなのです。この地域に居住する市民は行政から散々に騙されてきた経緯があるからだと思います。
3月12日に原発事故が起きた後、行政より避難の指示があった時、その行く先々で高い線量を計測していました。その数値は後からわかったことですが、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)で出していた結果がすぐに公表されていればそのようなことはなかったと思います。また米のことも同じで、一度は「福島の米は安全」と宣言したのにその後次々とセシウムが検出されました。だから、いくら行政が大丈夫、我々(保育所)が大丈夫といってもその保護者が信用しない心情は理解できるのです。私自身も行政が発表している数字は信用していないですから。したがって、そういう申し出があって以来、入所希望があった場合、外遊びがあるということを了承してもらってから入所を決めてもらっています。
近藤裕/経営者としてこの先がまったく見通せない、何年かかるかもわからない、一体どうすればいいのかわからない。けれどもやらなければならない、その方向や行き先がわからなくても。何が安心で安全なのか。国や東電が発表することが次から次と嘘だとわかり、その発表や数値は誰も信じていない状況です。
今この地域では“うつ”が増え、体調を崩す人が増えています。こういう地にあり、若い人がここに戻ってくるかといえば、そういう望みは持てない状況にあります。私たちは3月16日に避難をしたのですが、その時は3か月もすれば元に戻れると思っていました。しかし、それが今の現実なのです。
近藤啓/今、この地域の家族の現状としては男性の単身残留者が多いことです。つまり、その奥さんや子どもが別の場所に避難をしているため街全体の流通が低迷し、不活性状態にあるということです。
また、私が体験をしたことを一つお話します。私の実家が県外にあり、所用で帰省するため高速道路を利用しました。その際パーキングエリアに立ち寄って体を休めようとしていたところ、「わぁー福島ナンバーの車だー」と子どもが大きな声で叫び、気づくと周囲にいる人々がみんなこっちを見ているのです。このような話は噂では聞いていたのですが、わが身で体験すると何ともいえない気持ちになります。だから、県外では「福島出身」ということを隠して生活している人も多いと聞きます。これは、ここに住んでいる市民の辛さの象徴なのです。
近藤裕/戦後、原子力爆弾の被害者が被ばくしたことを何十年も隠して生活してきたことと同じように、これからそういう人が多く出てくると思います。そのような状況をつくり出す国民であってほしくない、と願いはしますが、哀しいことですが現実にはあるのです。
近藤啓/福島の産業は農業がメインで、地産地消のもとに、子どもたちに福島の米や他の食物を紹介しながら地元に対する誇りを持たせるような保育を行っていたのに、今回のことで地元の食材は使えない、外部からは特異の目で見られる、こんなことで子どもたちにここで生きていく誇りや良さを教えていくことなどできません。我々がやりたいと思っていること、長期的な見通しを持った保育が何一つできないのです。とにかく、今までの価値観がすべて崩れ落ちました。
近藤裕/先の見通しということでいうなら、この地域には公立保育園が3園あります。先ほども述べましたが、現在の在園児のうち半分近くは他園の園児です。これで24年度から公立保育園が保育を再開したら、私立保育園は経営できなくなります。そのため、原町聖愛保育園の理事長先生と一緒に、新年度の園児募集については公立保育園はやめてほしいという要望書を市長や議会宛てに提出しました(取材時点で公立保育園は閉鎖されたままで、24年度の再開見通しは未定でした。後日連絡を取ったところ、24年度について公立は再開しないということでした)。

 


石川県の保育園より、子どもたちがつくったお米が送られてきた!


■なかよし保育園の合同保育で得たこと

/話を少し戻しますが、なかよし保育園を開園している間の勤務状況はどのようにしていましたか?
近藤啓/管理者については、3園が持ち回りで常駐していました。私が月・火曜日、よつば保育園が水・木曜日といった感じで。保育士は3園の職員が合同で保育をし、なかよし保育園としての保育計画やデイリープログラムを3園の職員が話し合ってつくりました。震災までは各園がそれぞれのやり方で保育をしていたので細かなことの摩擦はあったにせよ、他園のそれぞれ良いところを認め合いながら保育を行っていったというのは、とても画期的なことではないかと思っています。このことは、それぞれの園の、地域の子育て支援のレベルアップにつながったと自負しています。
伝えたいこと

/現状として放射能からの復旧が進まない中、国や東電はもっとお金を出すべきではないか。出そうとしないなら、“奪い取る”という気概を持たないといけないですね。
近藤裕/はい。東電から金を“奪い取る”というくらいの気持ちでいます。これから東電と交渉に入りますが、最終的には弁護士をたてて交渉を行わなければいけないと思っています。
近藤啓/今回の放射能や運営費に対する国や県の姿勢は、とにかくあいまいです。監査等でさまざまな縛りを我々は受けているのに、いざこういう事態になると明確な態度をとってもらえない。12月14日付で送付された運営費算出に関する通知文一通をあげてみても、発信者名がどこにも載っていない、4月当初に聞いたこととは違う内容の文書を平気で送付してくる。どうしても怒りの感情が湧いてくるのです。

/最後に、何か伝えたいこと、おっしゃりたいことはありませんか?
近藤裕/いつの時代もそうだとは思いますが、役所というのは問題を起こさなければいいという態度です。とにかく声を出すということがいかに大事なことかを感じました。今回の運営費の支弁についても、全私保連や日保協が声を出してくれたお陰で動きが早まりました。ほんとに助かりました。
近藤啓/全私保連や他の方の支援物資は本当に有難いと思っています。ただ、今我々にとって一番の支援は“忘れられないこと”“覚えていてもらうこと”です。

 


お話してくださった近藤裕理事長兼所長(左)と近藤啓一副所長


インタビューの主な内容は以上ですが、いくつか貴重な資料をいただきました。その中の一つに『原町区保育所父母の会連絡協議会が提出した「市に対しての要望・提案」に関する回答』という資料があります。これは、同協議会が除染や放射能汚染全般、雇用や日常生活、医療や福祉などについて要望・提案をした事項に対し、市の回答が記載されていました。詳細は省きますが、「お役所的な回答」という印象は拭えません。
また、今回体験したことを何か形に残したいとの思いから『3月11日以後~平成22年度北町保育所修了児保護者による記録集』という小冊子を作成しています。これも詳細な内容は省きますが、各保護者・家庭がどのような想いを持ち、また震災後どのように生活を送っていたかが記載されていました。当事者でなければ出せない表現、想いを感じ取ることができました。
北町保育所の皆様、ご協力いただき本当にありがとうございました。

(城戸久夫・片岡敬樹/全私保連広報部)