公益社団法人 全国私立保育連盟

あの日を忘れない 東日本大震災

まどか保育園の現在まで【1】まどか保育園の一番長いあの日から…

東日本大震災・福島第一原発事故後2年3か月
◆福島県双葉町・まどか保育園の現在まで◆【1】
まどか保育園の一番長いあの日から…その1
柗本洋子●まどか保育園副園長

【保育通信No.698/2013年6月号】

 2011年3月11日、大震災当日の午前中までは、あたたかな春の訪れを感じる日であったと記憶しています。
 保育園に隣接している正福寺の境内には、3月の誕生日を迎えた園児たちの誕生日会を催すため、園児たちの声が響きわたっていました。そして、お別れ会も兼ね、園児たちも子どもながらに寂しさと華やいだ心でいたと思えます。
 楽しいお誕生日会、マジックショー、職員が翌日出場予定であったNHKのど自慢大会出場のためのリハーサル、おいしい給食がふるまわれ、とても幸せな一時であり、今振り返ると最高の思い出でした。
 3月11日午後2時46分、得体の知れない地響きとともに大地が揺れ始め、徐々に大きな揺れに変わり、保育園の中は園児の叫び声や職員が指示する声、さまざまな声が入り乱れ、家具が倒れ、一瞬にして混乱の渦に変わりました。皆、この揺れが早くおさまってほしいと願い続けたことでしょう。

 数分後、徐々に揺れもおさまり、園長、副園長の指示により園児たちは園庭に集合しました。その時、私が目にした光景は、先ほどまでの穏やかな時の流れの中にいたとはとても信じられない変わり果てた光景でした。
 園児たちの可愛い声の余韻が微塵も感じられない光景となり、お寺の壁が崩れて骨組みが露わになり、本堂を引っ張っている鉄製のロープが切れ、何かと接触している音がギシギシと園舎にも聞こえてくるほどでした。鐘楼堂は崩れ落ち、墓石も散乱し、地割れも酷く、すぐにでもお寺の本堂が倒壊するような有様でした。
 そんな中、近隣の多くの方が助けに来てくださったことに今でも感謝しております。

 徐々に地震がおさまると同時に、急に天候が変わり始め、雪や雹が降り始めました。私はとっさに園児に防寒着を着せ、園児の身体に落下物が直接当たらないように布団やビニールシートを園児の頭の上に掛けることに追われていました。
 そうこうするうちに津波警報が鳴り、高台の小学校へ避難することを決断しました。
 年長組の子どもが年少組の子どもの手を引き、物が散乱した危険な道を必死に逃げる姿を見届け、私は保育園とお寺の対応を園長に頼み、小学校へ避難しました。
 小学校に到着し、学校の様子を見回りました。園児たちは大勢の方と一緒の大きな部屋へ避難していました。保育園に実習に来たことのある近くの病院の看護学生も一緒だったので、子ども一人ひとりについていただきました。また、知人からは飴を分けていただき、少しだけ安心したことを覚えていますが、その後断続的に大きな余震が続き、上の階へ避難することができないと考え、大勢の方が狭い室内に閉じ込められている1階に避難せざるをえない状況でした。
 小学校は耐震設計がされて安全であることはわかっていても、余震が起きる度に悲鳴があがるような状況下でしたが、徐々に子どもたちを保護者へ戻すことができました。保護者の中にはミルクやおむつを持ってきてくださる方もいて、園児たちや私たちもとても助かりました。
 数時間が経過すると、徐々に冷静な気持ちを取り戻したのでしょうか。私は保育園から避難する際に園舎のドアを開けっ放しにしていたので戸締りをしなくてはいけないと思い、息子と一緒に園の様子を見に戻ったり、小学校での炊き出し、けが人の搬送、食事の配給等の手伝いをするなど、とても長い一日で、その日は眠りにつくこともできませんでした。

 小学校に残っていた保育士へ自宅に戻るように促していたところ、園長が慌ただしく駆け込んで来て、「福島第一原発の半径3㎞もしくは10㎞圏内にいる人は避難するように!保育園に戻ってはいけない!」という叫び声が聞こえましたが、どのような理由があって叫んでいるのか瞬間的に理解することができませんでした。
 間もなく小学校の校内放送で、町役場が要請した避難用のバスで避難するか、自家用車で避難可能な方は福島市方面へ避難するようにとの指示があり、私も自家用車で双葉町を後にすることになりました。
 車中のラジオ放送からは涙声が漏れ始め、「地震と津波で受けた被害により、福島第一原発の原子炉建屋が爆発した。放射能が一斉に拡散するのではないか」という内容の放送を聞きました。
 私は気が動転して、何が起き、一体どうなっているのかわかりませんでしたが、その後、福島第一原発が水素爆発を起こして建屋が崩壊し、放射能漏れによるための避難であることが理解できました。
 避難するにあたり、原発から半径10㎞にも及ぶ避難対象地域の方々が一斉に避難を行う訳ですから、車は大渋滞でまったく動きません。車内では緊張のためか喉も乾き、飲み物がほしくなりました。幸いにも避難途中に保育園の職員と会うことができ、水を分けていただきました。道路のあちこちで、避難されている大勢の方どうしが何かしらの物と交換されている光景が見られました。
 数時間かけて「避難所」と書かれている小学校に到着し、睡眠をとることができましたが、段ボールを使って寝ることになり、体の疲れが抜けることはありませんでした。でも、大勢の方も一緒におられたため、安心感に包まれておりました。

 しかし3月15日、この状況が一変する出来事が再び起きました。避難距離が半径20㎞に拡大されたのです。この避難所から更に遠い場所への避難を余儀なくされる事態となったことは、いうまでもありません。
 その際、避難所の校長から説明があり、「避難用の大型バスが順次到着するので、乗車して避難してください」とのこと。また、40歳未満の方にはヨウ素剤を配布するので服用するように、との指示もありました。
 その後、私は会津方面に避難することになりましたが、避難所で家族と合流するのを希望していた2名の職員がいて、息子も職員のことを気にやんで一緒に残ることを決意。後ろ髪を引かれる思いとともに、放射能の恐怖に駆られながらの避難であったと記憶しています。
 私はようやく会津に到着し、市内のホテルに宿泊することができ、久しぶりの湯船に体を委ねることができました。しかし、息子たちの身を案じると身につまされる思いでいました。

 会津到着から2日後、私たちは更に遠方への避難を考え、群馬県にいる兄の空き家があることを思い出して連絡したところ、「すぐに来なさい」との返事があり、兄は雪道の中、車で会津まで迎えに来てくれました。
 その後、私たちは群馬県高崎市に向かい、一時的な避難場所と考えて住むことになりましたが、まさか、これから約2年もの間、この地に住むことになるとは夢にも思いませんでした。

 3月11日からしばらく経過し、福島県双葉町の大勢の方々が埼玉県さいたま市のさいたまスーパーアリーナに移動したことを知り、すぐに駆けつけました。スーパーアリーナには保育園やお寺の関係者等、知り合いの方が大勢いて、震災当日からどのようなことが起きたのか等、いろいろな話をすることができ、貴重な時間をすごすことができました。そして、その日から1日おきにここへ通い、大勢のボランティアの方々と避難生活をされている方のお手伝いをさせていただきました。
 その後、保育園の満了式を執り行っていないこともあり、双葉町役場の方と相談し、スーパーアリーナの中でミニ満了式を開催することになりました。他の地域へ避難されている園児たちにも声を掛けて集まっていただき、ボランティアの方々にもお手伝いいただき、厳かではありますが満了式を執り行うことができました。
 今でも忘れられないのは、いつも元気よく歌っていた園歌を誰一人として声がつまって歌うことができなかったことです。またみんなで再会したいという思いで胸がいっぱいになりました。
 その後、園長と職員たちの今後の処遇に関して、このような状態では休園せざるをえない、やむなく退職をお願いするに至りました。しかし、さまざまな手続きを行うにしても保育園に残していた書類が必要ということで、息子がすでに避難地域に指定されている保育園に命懸けで戻り、書類や印鑑を取りに行く事態が起こりました。行政は、一体このような事態をどのように考えているのか、理解に苦しみました。しばらくすると、双葉町役場を埼玉県加須市の旧埼玉県立騎西高校に移すことになり、何かある度に通い続けることになりました。
 

さいたまスーパーアリーナで行った満了式