公益社団法人 全国私立保育連盟

保護者

子どもは保育園で頑張っています
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

子どもは保育園で頑張っています

 自転車で園庭を何度も何度もぐるぐる回って、お母さんはいまどこまで来たかを繰り返し先生に尋ねるAちゃんを見ると、お母さんを心待ちにしていることがとてもよくわかります。朝は泣いての登園だったようですが、朝、何があったのでしょうか。それでも気持ちが切り替わると、元気に遊びます。でも、いつも楽しいことばかりではありません。友だちとの遊びで思いと思いが衝突してトラブルになることもあります。それを通して、自分にも友だちにもお互いの思いがあることに気づき、それを調整する術を少しずつ身につけていくのです。今日は先生に絵本を読んでもらって気持ちが紛れたのでしょうね。

 それから食事、午睡、午睡起きからおやつと保育園のいつもの生活の流れが続きますが、これも楽しいことばかりではありません。順番のトラブルがあったり、眠れなくて先生にトントンしてもらったり、いろいろあります。そうしてお母さんのお迎えを待つのですが、友たちのお迎えが次々にあって、自分のお迎えがなかなかだと、次第に心細くなってきますね。

 Aちゃんは、今日はお迎えが早かったようですが、その分、お母さんがいつお迎えに来るのか、今か、今かと待っていたのでしょう。そしてやっとお迎えが来た!その時の子どもがどんなに嬉しい気持ちになるか、それを読者のお母さんにも伝えたくて、Aちゃんの一日を紹介してみました。

 お母さんのお迎えを心待ちにしていたのに、お母さんの顔を見ると急に知らん顔をして遊び始める子もいます。それは待ちに待った気持ちの裏返しなのですが、そんな時に「ぐずぐずしないの!」と叱られると、子どもは辛いですね。

 また、今日の素敵な姿を先生からお母さんに伝えてもらうと、はにかんだような嬉しい表情を見せる子もいます。

 どの子も一日を頑張ってすごし、頑張ったことを認めてほしいと思っています。先生が「今日、○○ちゃんはこんな工夫をしてみんなを驚かせたんですよ」と褒めてくれて、お母さんが「そうだったの」と笑顔で認めてくれる…それは子どもにとって一番嬉しいことでしょう。

 お母さんもお仕事で大変でしょうが、子どもはみんな、保育園で一生懸命遊び、頑張ってすごしています。お迎えの折には、そのことをぜひ認めてあげてください。

第16回は12月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

子どもは保育園で頑張っています
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

Aちゃん(3歳児)の一日(Aちゃんの担任の先生が書いた文章から)

 今日、Aちゃんは泣きながらの登園でした。「ママがいい」とお母さんにしがみつき、お母さんもハグをしてから、後ろ髪を引かれる思いで急いで会社に向かわれましたね。あの後、Aちゃんはしばらく私の膝の上にいましたが、そのうちに気持ちが落ち着いてきて、自分のしたい遊びに移っていきました。

 午前中は仲よしのBちゃんと色水で遊びました。ヨモギの葉を擦りおろし器で擦って、とてもきれいな緑色の色水を作って私に見せてくれました。最近はいろいろ考えて工夫ができるようになりましたね。

 その後、Bちゃんがお人形さんを使ってCちゃんとお母さんごっこの遊びを始め、少し遅れてAちゃんもそこに来て、その遊びに入れてといいましたが、Bちゃんに「今、Cちゃんと遊んでいるからダメ」と断られてしまいました。

 何度か「入れて」「ダメ」を繰り返し、悲しくなったAちゃんと目が合うと、Aちゃんが私のところにきて、「ママがいい」と泣き出しました。

 いつもはAちゃんと仲よしのBちゃんが、今日はCちゃんと遊んでいて、そこに入れてもらえない悲しさや悔しさが伝わってきました。そこで私はAちゃんと一緒にBちゃんのところにいって、「Aちゃんも仲間に入れてほしいんだって」と仲介してみたのですが、やはりBちゃんはダメといいます。今日はBちゃんにもBちゃんの思いがあったようです。 そこでAちゃんに、「じゃあ、先生と一緒に絵本読もうか」と提案したら、頷いてくれたので、部屋の隅でAちゃんの好きな絵本を一緒に読み、それでAちゃんは満足してくれたようでした。

 それから食事、午睡の準備、午睡、午睡起き、おやつと続き、その間はいつもと変わらないAちゃんでしたが、おやつの後の様子を見ると、何かいつもと少し違って元気がありません。そして私のところに「ママ、いつお迎えに来る?」と聞いてきました。そういえば、お母さんは「今日はいつもより早くお迎えにくるからね」といって会社に向かわれましたよね。いつもよりお迎えが早いので待ち遠しくて、早くお迎えに来てほしかったのでしょう。そこで、「そうね、今日はもうじきお仕事終わりになるから、お母さん、大急ぎでAちゃんを迎えにこられるよ。先生と一緒に待っていようね」と伝えると、ほっとした様子で園庭に向かいました。

 早いお迎えの方がちらほら見える中、ふと見ると、Aちゃんは園庭で補助付き自転車に乗って漕いでいます。そして私のところにきて、「ママ、もう会社出た?」と聞いてきます。「そうだね、もうそろそろかな」と答え、「ママ、会社出たら電車に乗って、駅に着いたら自転車に乗ってお迎えに来るよ。Aちゃんの自転車と一緒だね」というと、「Aちゃん、自転車に乗っていると、ママも自転車に乗ってお迎えに来るんだよ。
もう電車の駅に着いたかな?」というので、「駅はまだもう少しかな」というと、また自転車を漕いで向こうへ行ってしまいました。

 しばらくして、お迎えの保護者の方にご挨拶をしているところにまたAちゃんが自転車に乗ってきて、「ママ、もう駅に着いた?」と聞くので、「そうだね、もう電車に乗ったと思うよ。もう少しだね」というと、また自転車を漕いで行ってしまい、それからしばらくすると、「ママ、もう○○駅着いた?」と途中の駅を尋ねてきます。
「Aちゃん、○○駅知ってるの?」と訊くと、「知ってるよ、ママと電車に乗ったもん」と答えて、また向こうへ行ってしまいました。

 それからまた何回か尋ねてきて、「もう少しね」といっている間にお母さんのお迎えがありました。お母さんが「お待たせー、Aちゃん元気にしてた?」と笑顔で聞くと、「うん、自転車乗ってママがお迎えに来るの、待ってたよ」と伝え、お母さんにハグしてもらって、ニコニコ顔で一緒に帰っていきました。

 これが今日のAちゃんの一日です。

>②子どもは保育園で頑張っています

お母さんの自己肯定感は?
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

何かに自信がないことは自己肯定感がないことではありません

 何かで自信をなくすと、「自分は自己肯定感がないからだめなのだ」と思い込み、負の循環に陥るお母さん方も見受けられます。子育てに自信のある人はめったにいないでしょうし、生活も対人関係も家計もうまくやれて、何の不満もないような人はまずいないでしょう。うまくいかないことだらけなのが人生です。特に20代後半から30代の子育て期間中は、いろいろなことに自
信をなくしてしまうことがしばしばあります。それをすぐに自己肯定感がないからだと考え、ますます自信をなくしてしまう負のスパイラルに陥っていないでしょうか。

 何かで失敗したり、何かで自信をなくした時、まわりを責めるのではなく、信頼のおける人(夫や友人・知人)に愚痴をいったり、慰めてもらって元気を取り戻したり、自分の中に根を張っている自己肯定感が立ちあがってくるのを待ったりして、「よーし、もう一度」という気持ちになることが大事だと思います。そのためには、自分のまわりに何でも話せるような信頼のおける友人や知人がいること、自分の殻に閉じこもらないことがぜひとも必要になります。

 簡単に自己否定感に苛まれたり、だめだと簡単に諦めたりして落ち込む人は、頼りにできる友人・知人を持っていないことが多く、困難な事態を独りで切り抜けなければと身構えている人が多いように思います。

 もしもお母さんのまわりに頼れる人がいないなら、保育園の先生(担任の先生だけでなく、主任の先生や園長先生)を頼りにしてもよいのではないでしょうか。特に子育ての悩みに関しては、保育園の先生としっかり話し合い、時には家庭の難しい問題を話すなどして、話して気持ちが楽になると、それまで抑え込まれていた自己肯定感がきっと立ちあがってくると思います。

第15回は11月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

お母さんの自己肯定感は?
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

誰も認めてくれない、話し相手もいない…

 自己肯定感という言葉が巷に溢れる中で、ちょっとした不満を抱える人や少し自信をなくした人が「自分は自己肯定感がないのでは?」と過剰に反応し過ぎているのではないかという点に今ふれましたが、時間に追われる日々の生活の中で、誰にも認めてもらえない、話し相手もいない、仕事以外の生活の中で自分を必要としてくれる人もいないと思い込むお母さんが増えてきているのも確かです。

 一つ屋根の下で暮らしてはいても、夫婦間に今や会話もなく、夫から愛されているという実感も得られない、子育てもうまくいっている感じがないし、保育園の送り迎えなどでも話し相手になる人がいない、職場で「よくやっている」といってくれる人もいない、自分は誰からも認められていないのではないか…。

 お母さんがもしもこのような憂鬱な気分に陥っているなら、確かに「よーし、やってみよう」といった、自己肯定感から生まれる前向きの姿勢にはなかなかなれないでしょう。まさにこのような状態こそ、自己肯定感が立ちあがってこない状態、自己肯定感が乏しい状態、あるいは自己肯定感が傷ついた状態と考えてよいと思います。

 こうした負の心の状態に陥るのにはいろいろな理由があると思います。

 一つは、自分の不満をすべてまわりの人のせいにするなど、他の人を責めて、自分の問題として考えようとしない場合です。
実際、まわりの人を責める気分で生活していると、まわりの人の思いに気づけなくなり、そのためにまわりから顧みられなくなって、通常の対人関係が営めなくなり、まわりの人からの肯定的な評価が得られなくなってしまいます。

 もう一つは、幼い頃に愛情豊かな家族関係や良好な友人関係を十分に経験できず、そのために自己肯定感の根が十分に育たなかった場合です。このような人は、いつも他者からの肯定的な評価を得ようとし、自己肯定感を維持しようと努めますが、自己肯定感の根が十分でないために、相手から高い評価を得ても満たされた気持ちになれず、自己否定感に苛まれてしまうことが多くなってしまうようです。

>③何かに自信がないことは自己肯定感がないことではありません

お母さんの自己肯定感は?
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

生活に張りがあれば…

 自分には信頼できる人がいる、自分を認めてくれる人がいる、自分を必要としてくれる人がいる…。そう思える人は自己肯定感を持てている人だといってよいでしょう。
 自己肯定感というのは、「それがある」と意識できる感覚ではありませんし、世間でいわれているような「ありのままの自分でよい」ということでもないと私は思っています。「信頼できる人」「自分を認めてくれる人」「自分を必要としてくれる人」、それらの人がいれば、その人はその生活の中で、きっと気持ちが前向きに動くに違いなく、それは一言でいえば、「生活に張りがある」感覚だといってもよいのではないでしょうか。私は、それが自己肯定感だと思っています。

 お母さんが子どもから「お母さん大好き」と思われ、夫から「愛しているよ」と言葉や態度で示され、また職場の同僚や友人から「よく頑張っているね、頑張っているあなたは素敵だよ」と認めてもらえるなら、たとえ子育てや日々の生活で多忙な毎日をすごしていて、自分のための時間や、ほっとできる時間が乏しくても、前向きに生きる意欲が湧いてくるに違いありません。それは、「自己肯定感がある」状態といってよいでしょう。

 確かに、仕事を持ちながら子育てもしなければならないお母さんの多くは、自分のための時間などとても持てないほど時間に追われ、余裕のない日々をすごしていることでしょう。それがいろいろなことへの不満につながって、子どもに当たり散らすことさえあるかもしれません。おそらく今述べたことは、程度の差こそあれ、仕事を持ちながら子育てをしているほとんどの人に当てはまると思います。

 何かの不満を持ったり、前向きの気持ちが動かない時があったりすれば、すぐさま自己肯定感がないかのような議論が横行していますが、私は、自分がまわりから認められ、必要とされていると感じられていれば、自己肯定感はあるといってもよいと考えています。

 ただし、不満や意欲の減退はその都度意識されますが、自己肯定感は「今それがある」というふうに意識できないものです。そのこともあって、「自己肯定感がない」ということが過剰に取り沙汰たされているということはないでしょうか。

>②誰も認めてくれない、話し相手もいない…

「お互いさま」の心の育ちも大事です
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「お互いさま」の素地は幼児期に育まれます

 一人前の大人になるということは、単に自己主張ができるようになるだけでは不十分です。自分の考えをはっきり主張することは大事ですが、他方で、相手の主張にも耳を傾け、時には自分を貫き、時には相手の主張を尊重して譲ることも、大人の対人関係の中では大事になってきます。自分がまわりから尊重されたいと思えば、自分もまわりを尊重することをわきまえなければなりません。相手に譲ってもらえば、それに感謝し、自分が譲ってあげれば相手から感謝されるというように、そこに「お互いさま」があってこそ、一人前の大人の対人関係といえるでしょう。

 他を顧みない一方的な自己主張は、独り善がりのものにすぎません。「相手を尊重する─ 相手から尊重される」「自己主張する─ 相手の自己主張を聞く」等々、私たち大人の対人関係は、それぞれがかけがえのない自分だけの世界をもちながら、しかし、ともに生きていくためには「お互いさま」がわかって、それに沿った振る舞いができなければなりません。自由と権利の主張が義務と責任を果たすこととセットになっているのも同じことです。

 子どもをそのような一人前の大人にするためには、単に学力をはじめとする様々な力を身につけさせればよいというわけにはいきません。自己肯定感と信頼感を基盤に、子どもの心の中に「お互いさま」がわかる素地がつくられなければならないのです。そのためには、2歳前後からの自己主張の経験と、3歳頃からのトラブルの経験や協働の経験、そして、それを通して「ごめんね」「いいよ」が素直にいえるようになることが必要なのです。

 「お互いさま」の心の育ちは「ごめんなさい」や「ありがとう」を無理にいわせようとしたり、「相手を思いやりなさい」と強くいって、いうことを聞かせたりすることで育まれるものではないことを、お母さん方にもわかっていただきたいと思います。

第14回は10月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

「お互いさま」の心の育ちも大事です
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

自他の区別の経験と、自他の融合の経験が大事です

 トラブルを通して自他の違いがわかり、相手にも自分とは違う思いがあることがわかるようになる一方で、集団生活の中で仲よしの子と一緒が嬉しい、一緒が楽しいという経験も増えてきます。
 砂場に水を入れてダムを作り、その水を山のトンネルを通して向こう側に流すというイメージを二人で共有して、一方が砂で作ったダムに水を溜め、他方がトンネルを掘って、水を通すなど、ワイワイいいながら楽しそうに遊んでいます。大人の目から見ると役割分担をしているように見えますが、どうやら子どものあいだでは、自分のしていることは相手もしていること、相手のしていることは自分もしていることといった、子どもならではの協働の喜びになっていることがしばしばです。

 このように、子どもは相手にも思いがあって、相手と自分は違うということがわかりかけている一方で、自他が融合したような「一緒がいい」という経験も大事な経験として積み重ねています。仲よしの子ができて、何をするのも一緒、散歩の時には必ず手をつないで、という姿が出てくるのも、「一緒がいい」という経験をしっかりしてきたからです。

 時には一人の子どもが場面を仕切って、相手を自分の思うように動かし、相手もリードする子のいう通りにするというケースもありますが、そんな「支配する─される」という関係は長続きせず、いずれは従うだけの子どものほうがおもしろくなくなって、リードする子から離れることになります。そこに子どもなりの選択が働いて、自分の思いがわかってくれそうな子を友だちに選び、その友だちのいうことは聞き入れたり、従ったりするというふうにして、友だち関係がしだいに深まっていくのです。

 こうした子どもの姿から、それぞれが別個の思いを抱いているということと、それにもかかわらず、お互いに相手の思いを共有することができるという、両立の難しい心の動きが少しずつできるようになっていることが見えてきます。ここに至るまで、強く自己主張をぶつけ合う経験、他方で、自他が融合して「一緒だね」という思いになる経験が欠かせません。

>③「お互いさま」の素地は幼児期に育まれます

「お互いさま」の心の育ちも大事です
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

トラブルを通して、相手にも思いがあることがわかります
 子どもは集団生活をする中で、3歳を過ぎる頃から、自分に「こうしたい」「こうしたくない」という思いがあるだけでなく、相手にも自分の思いとは違う「こうしたい」「こうしたくない」という思いがあることに、しだいに気づくようになります。

 3歳児の物の取り合いはお互いに必死で、顔を真っ赤にして引っ張り合い、「だめ!」「いや!」というばかりで、挙句は双方とも泣いてしまうことがしばしばです。そんな時、保育者があいだに入って双方のいい分を聞くと、一方の子は「これは僕が後で使おうと思って、そばに置いておいたのに」という思いだったことがわかり、他方の子は「君が使っていなかったから、僕が使おうと思った」という思いだったことがわかります。そこで、保育者が双方のいい分を相手にしっかり伝えると、何とか双方が納得してトラブルが収まり、しばらくすると笑顔になって、また一緒に遊んでいるという場面がしばしば見られます。

 このように、物の取り合いなどのトラブルは、子どもが自分にも思いがあるように、相手にも思いがあることに気づく大事な場面であることがわかります。けんかをしないのがよいのではなく、思いと思いの衝突からくるけんかは、自分はこうしたいのだという思いを相手に伝えながら、相手にも自分とは違う思いがあることに気づくための大事な意味をもった場面なのです。そのことを、お母さん方にもご理解いただきたいと思います。

 こうした経験を通して、自分から「ごめんなさい」がいえるようになり、それに対して相手が気前よく「いいよ」といってくれるようになり、逆に相手が「ごめんね」というのに、自分が「いいよ」と応じられるようになって、しだいに「お互いさま」の素地ができあがっていくのです。

 もちろん、トラブル以外にも、転んで痛がっている友だちを心配したり、慰めたりという振る舞いも、相手の思いに気づく(共感する)からこそ生まれる行為ですが、思いと思いが衝突するトラブル場面ほど、お互いが違う思いを抱いていることに気づく大事な場面はないといってもよいと思います。

>②自他の区別の経験と、自他の融合の経験が大事です

自己主張は大事ですが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

1歳半からの自己主張と友だち関係

 子どもと大人の関係では、子どもの自己主張は大人がそれを受け入れるか、抑えるかによって、そこでの経験がどのように子どもの心に描き込まれていくかが決まりますが、保育の場で同じ年頃の子どもどうしの関係になると、お互いに自己主張をストレートにぶつけ合うので、最初は衝突が頻繁に起きることになります。噛みついたり、他児が使っているものを取ったり、他児が作ったものを壊したりといった、大人から見た負の行為も、お互いの自己主張のぶつかった結果であることがほとんどです。

 そのような子どもどうしの思いと思いのぶつかり合いは、そのまま見守っているだけだと、結局は力の強い子の思いがいつも通るということになりかねません。そうならないためには、保育者があいだに入って、それぞれの子どもにはそれぞれの思いがあることを繰り返し伝え、どうすればよかったかを子どもにも考えてもらうようにもっていくという対応が大事になってきます。つまり、衝突がいけないのではなく、それぞれに違う思いがあるから衝突するのだということにまず子どもどうしが気づき、そこから仲よく遊ぶ(仲よく生活する)ためにはどうしたらよかったかを自分で考えるようにもっていくことが必要になります。

 こうして、しだいに「ケンカもするけど仲よしだ」というように、相手の存在を大事に思う気持ちが育っていくのです。

 家庭で何でも「いいよ、いいよ」で育ってきた子どもは、集団の場でも最初は全部自分の思いを通そうとするので衝突が絶えませんが、しだいに相手にも思いがあることがわかってくると、自己主張の仕方を微妙に変化させていきます。そこに、お母さんとは異なる集団生活での友だち関係のもつ意義があるのでしょう。

 時に自分の思いを相手に譲ると、相手が喜んで「ありがとう」といってくれ、それが自分にも嬉しいという経験や、その逆に、相手に譲ってもらって嬉しい気持ちを「ありがとう」と返すと、相手がそれを喜んでくれるというような、双方向の経験がしだいにできるようになってきます。

 ここに自分の自己主張と相手の自己主張にどう折り合いをつけるかという、人間として生きていくうえに欠かせない経験がしっかり根を下ろしていくのです。

第13回は9月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

自己主張は大事ですが…
鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

 子どもの自己主張は大事だと述べたばかりですが、では子どもの自己主張は何でも通せばよいかといえばそうではありません。子どもの自己主張を何でも「はい、はい」と受け入れすぎれば、子どもは自分の思ったことはいつでも叶えられるという万能感を抱くようになり、思いが通らない時には癇癪を起こすようになってしまいます。そうならないように、子どもは日々の生活のいろいろな場面で、自分の自己主張は通る時もあれば、通らない時もあるという経験をすることが大事になってきます。

 例えば、おもちゃ売り場でおもちゃを買ってほしいという自己主張は、子どもの思いとしては当然の主張ですが、お母さんとしてはそのほしい気持ちに添って買ってあげる時もあれば、ほしい気持ちはわかっても今日は買ってあげられないと突っぱねる時も必要です。

 この時大事なのは、お母さんとの押し問答が、すべて自分の思い通りにいくわけではないというふうに子どもに経験されることです。その時、お母さんの側には、子どもの自己主張に応えてあげられなかった事情を、子どもが納得できるように伝えていくという難しい対応が求められます。子どもが自分の気持ちに折り合いをつけられるように、「今度買ってあげるね」とか、「その代わりに、こうしてあげようか」などの提案をしてみることも必要でしょう。

 自己主張が通らない経験を通して、子どもは何でも自分の思い通りにできるわけではないという経験と、お母さんにはお母さんの思いがあり、それは自分の思いとは違うという二重の経験をすることになります。それが、その後の対人関係の中でとても重要な役割を果たしていくことになるのです。

>③1歳半からの自己主張と友だち関係