公益社団法人 全国私立保育連盟

保護者

育てる営みを振り返る

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

この図に照らして、現代の家庭の子育てを振り返る

保育通信4月号-図

 さて、この図に照らして、お母さんの子育てを振り返る時、初回でも触れたように、お母さんの「養護の働き」は十分に子どもに届いているでしょうか?子どもに接する時、子どもの存在を優しく温かく包むような心の動きになっているでしょうか?

 そこが弱くなったまま、子どもに何かを買い与えたり、行楽に連れて行ったりすることを愛情と履はき違えていないかというのが、最初に問題にしたことでした。

 私の見るところ、今多くの家庭の子育ては、子どもの思いをていねいに受けとめることを忘れて、ひたすら大人の願いを強く伝えるところに傾いているように思います。「あれをしなさい、これをしなさい、どうしてそうするの」というように、すべてお母さんが仕切ってしまって、子どもの「こうしたい、こうしたくない、こうしてほしい」という思いが顧みられないまま、それをすべて「わがまま」や「聞き分けがない」としてしまっているところに、子どもの育ちが歪む大きな理由があるのではないでしょうか。

 つまり、このヤジロベエの本来あるべきバランスが「教育の働き」のほうに大きく傾いているということですが、その「教育の働き」も、本来の大人の願いを優しく伝えるところから逸脱して、大人の側の一方的な願いを押しつけるかたちで、「これをしなさい、あれをしなさい、どうしてこれをしないの」というふうに子どもの背中を押す対応になっているように見えます。

 そしてそうなるのは、早く力がつくこと、早い発達がよいことだという思い込みがお母さん方にあるからではないかと、第2回、第3回では述べたのでした。

 このヤジロベエが右のほうに傾いている問題は、就学前の保育でも、就学後の学校教育でも変わりません。学校教育が上手くいかないのも、教師の「養護の働き」が弱くなっているところにその理由を求める必要があると私は思っています(保育に理由を求めるのではなく)。 勉強嫌いは、勉強しなさいと発破をかけるだけではなくなりません。どうすれば勉強がおもしろいと思えるようになるのか、そこを考える時、「養護の働き」と「教育の働き」のバランスという問題に必ず行き着くはずです。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

第9回は5月上旬に更新予定です。

育てる営みを振り返る

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「養護の働き」と「教育の働き」は互いに支え合う面がある

 前回は、この二つの働きがせめぎ合う点を強調し、それはこの図がヤジロベエのかたちになっているところに示されていますが、この図の中間を左右の矢印が行き交っているのは、両者がせめぎ合うだけでなく、お互いに支え合い、強め合う面をもっていることも示したいからです。

保育通信4月号-図

 前回の離乳食の例でいえば、「もうお腹がいっぱいになってきたね」と子どもの思いを受けとめながら(養護の働き)、その裏側で、でも、もう少し食べられるでしょう、もう少し食べてね、という大人の願い(教育の働き)も働いています。逆に、もう少し食べてほしいけど(教育の働き)、でも、もういらないかな(養護の働き)、という思いも働いています。

 このように、二つの働きはせめぎ合う面をもちながら、お互いに支え合い、強め合う部分ももっているのです。そこに、「育てる営み」の奥の深さ、難しさがあるといってもよいのではないでしょうか。

 いずれにしても、大人の側のよかれと思う一方的な思いを子どもに押しつけていくことが子どもを育てることではないことを、この図から読みとっていただければと思います。

>③この図に照らして、現代の家庭の子育てを振り返る

育てる営みを振り返る

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

育てる営みを図示してみる

 育てる営みが難しくなるのは「養護の働き」と「教育の働き」がせめぎ合うからだと、前回述べました。これを図示したのが左ページの図です。

保育通信4月号-図

 この図は、前々回の「養護の働き」と「教育の働き」の内容を取り込み、また、前回の、両者のせめぎ合いという考えを取り込んで、ヤジロベエで表したものになっています。

 まず「養護の働き」は、子どもの存在を優しく温かく包む大人の気持ちがその底流をなしていることを反映し(図中・左側の最下段)、具体的には、子どもの思いを受けとめる、子どもの存在を認め、尊重し、喜ぶ姿勢が「育てる」営みに欠かせない事情を示しています。そのような思いに大人が自然になれるのは、大人がかつてはみな子どもだったからで、自分が小さかった時もこうだったに違いないと、子どもの目になったり、子どもの身になったりしてみると、そういう気持ちが自然に出てくるという事情を示したものです。

 他方で、図中の右側の「教育の働き」は、大人の願いを子どもに伝えることも「育てる」営みに欠かせないということを反映し、具体的には、「これしてみない?」と優しく誘いかける、やる気がなくなってきたら、「もう少し頑張ってみよう」と頑張りを促す、行き詰ったら、「ここはこうすると上手くいくよ」と優しく教える、そして大人が困る振る舞いには禁止や制止を示し、それでも止まらない時には叱るという中身からなっています。

>②「養護の働き」と「教育の働き」は互いに支え合う面がある

育てることは、なぜ難しいのでしょうか

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

おもちゃ売り場でおもちゃを買う場面から

 おもちゃ売り場でおもちゃを「買う、買わない」を巡って、子どもと押し問答をしたことのあるお母さんは多いと思います。

 ここでも、最終的に買うか買わないかはお母さんが決めることですが、そこに行き着くまでのところで、買ってほしい子どもと、今日は買わないと思っているお母さんとのせめぎ合いがあります。ほしがっている子どもの必死な様子、おもしろそうなおもちゃだし買ってあげてもいいかなというお母さんの思い、そしてお母さんの懐具合によって、今日は買ってあげようと思う日もあれば、この前も買ったから、今日は買わない、ごねても駄目よ、と買ってあげない日もあるでしょう。そのせめぎ合いが子どもを育てることにつながるのです。

 もしも子どもの気持ちには関係なく、子どもに必要なおもちゃは全部自分が計画的に買うとお母さんが決めているなら、子どもは「これがほしい」とはいえなくなってしまうでしょう。「これがほしい」というのは一個の主体として当然してよい主張です。その思いを受けとめながら、しかし、いつもそれを受け入れていたのでは、子どもは買ってもらって当然と、どんどんその欲望をエスカレートさせるだけでしょう。そこに、どこまで子どもの主張を受け入れるのか、どこから先は頑として拒むのかの、難しい線引きがあります。

 よくお母さん方は、その線引きのマニュアルを示してと求めますが、そのようなマニュアルはありえません。そこに子どもの主体としての思いを尊重しながら、お母さんの願いを伝えるという、まさに「養護の働き」と「教育の働き」がせめぎ合う場面が生まれ、これが育てるという営みを難しくしているのです。

 聞き分けのよさを求めすぎるということは、「養護の働き」と「教育の働き」のバランスを後者に傾けさせるということでしょう。そうすれば、お母さんの願いは叶えられるでしょうが、子どもの思いは押し込められてしまいます。そのバランスがいつも難しいから、子どもを育てることはいつも難しさを抱えてしまうのです。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

育てることは、なぜ難しいのでしょうか

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

離乳食の場面から

 私の観察例から一つ引いてみます。6か月の赤ちゃんの離乳食の場面です。

 お腹が空いていたのか、赤ちゃんはお母さんの差しだすスプーンにタイミングよく口を開けて、どんどん離乳食が進んでいました。スプーンを口元に運ぶ→口を開ける→スプーンが口の中に入る、のタイミングが素晴らしく、4か月に始まった離乳食がわずか2か月でこんなにもスムーズに進むのだと感嘆する気持ちで見ていました。

 ところが、ある程度食べたところから、そのタイミングが乱れ始めます。赤ちゃんはベビーラックの足元にある〝ぬいぐるみ〟に興味があるのか、それに気持ちが向かって、お母さんの運ぶスプーンにタイミングよく口を開けなくなってきました。お母さんは「もうマンマいらないの?」と声をかけながらも、スプーンをなおも運びます。赤ちゃんもスプーンをまったく受け入れないわけではなく、思いだしたように口を開けてスプーンを受け入れています。

 ここで、もっと食べさせたいというお母さんの思いと、もういらないという赤ちゃんの思いがぶつかり、そこからは両者の思いと思いがせめぎ合い、最終的に赤ちゃんが顔を背けたところで、お母さんはある程度食べたからいいことにしようと思ったのか、赤ちゃんの口のまわりを拭いて、離乳食は終わりになりました。

 このエピソードで興味深いのは、二人の思いと思いのせめぎ合いの部分です。

 お母さんには「もっと食べてほしい」という願いがあります。しかし、赤ちゃんにも「もういらない」という思いがあります。この時、離乳食を進めるお母さんの育てる営みは、赤ちゃんのいらないという思いを受けとめつつ(養護の働き)、もう少し食べてほしいという自分の願いを伝える(教育の働き)という微妙なせめぎ合いから成り立っています。そこに、育てる営みの難しさが凝縮されています。

>③育てることは、なぜ難しいのでしょうか

育てることは、なぜ難しいのでしょうか

鯨岡 峻(京都大学名誉教授) 

育てることは難しい

 子どもを育てることが難しいと思わないお母さんはいないでしょう。しかし、育てることが難しいのは人間の子どもだけではなく、ペットを育てることだって、植物を育てることだって、さらには部下や学生や大学院生を育てることだって、どこか難しいところがあります。そうしてみると、「育てる」という営みそのものに難しい面が孕まれているとうことになります。その難しさはどこからきているのでしょうか。

 私の考えでは、それは「育てる者」と「育てられる者」の関係の中で、「育てる」という営みが「育てる者」の願いや意図通りにはならないことにあります。なぜそうならないかといえば、「育てられる者」の側が、「育てる者」の育てる働きを一方的に受けるだけの存在ではないからです。

 植物を育てるには水と肥料が必要ですが、では水や肥料をたくさん与えれば与えるほど植物の成長が早くなるかといえば、そうではありません。植物の状態や「様子」を見て水

遣やりや肥料遣りを加減しなければなりません。

もちろん、人間の子どもを育てることは植物を育てること以上に難しい訳ですが、それは人間の子どもが自分の意思や願いや欲求をもち、大人の育てる営みをいつも全面的に受け入れる存在ではないからです。

 お母さんが、もしも自分の思い通りに子どもを動かそうと思っていたら、そうならない現実に必ず直面するはずです。

 こうしてほしい、こうなってほしい、聞き分けてほしいという親としての願いをもちながら、子どもの「こうしたい」「こうしてほしい」「これは嫌」という思いを受けとめていくのが(受け入れるのではありません)、前回述べた「養護の働き」です。そして、その「養護の働き」が子どもに届いているのを確かめながら、大人の願いを振り向けていくのが「教育の働き」です。その兼ね合いがいつも難しいのです。

 育てる営みを「教育の働き」だけに置き換えることができないのは、小さいなりにも子どもは一個の主体として生きているからです。子どもを一個の主体として尊重しながら、

人の願いを振り向け、結果として大人の願いが実現されるかどうかは、子ども次第のところがあります。だから育てる営みは難しいのです。

 具体例を挙げて考えてみましょう。

>②育てることは、なぜ難しいのでしょうか

「育てる」とはどういう営みでしょうか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「教育の働き」とは

  子どもは未来の大人です。大人の「育てる」営みは、子どもが将来大人になる存在であるからこそ必要になってくるものでもあります。これから大人になるためには、今はまだできないことが、次第にできるようになっていかなければなりません。

 その中には、寝返ったり、歩いたり、走ったりなどの一連の運動行動や、言葉やコミュニケーションのように、普段の大人との生活の中で自然に身についていくように見えるものもありますが、多くは、大人が手ほどきし、子どもは見よう見まねで、あるいは教えられて身につけていくものが数多くあります。ですから、「育てる」営みは「養護の働き」だけでなく、大人のこうしてほしい、こうしてほしくない、こうなってほしいという一連の願いを伝える「教育の働き」もまた必要になってきます。

 身辺自立にかかわる一連の行為も、大人のいうことを聞きわけて振る舞うようになることも(こうしてほしくないという大人の思いに添って振る舞うようになることも)、それに向けて、まずは大人が「これをしてみようか」「してみない?」と優しく誘い、その誘いに乗ってくれば、子どものしようとするところを見守り、子どもがやりかけたことを投げだしそうになれば、「もう少し頑張ってみよう」と促し、行き詰まれば、「ここはこうすると上手くいくよ」と優しく教え、大人の願いから外れた振る舞いには、「それは止めてね」「それはダメよ」と優しく禁止や制止を示し、それでもいうことを聞かない時には「それはいけません!」と叱ることも必要になってきます。

 要するに「教育の働き」とは、大人の願っているところに子どもを導いていく一面をもつということで、それを通して、子どもはいろいろなことを身につけ、一歩一歩大人に近づいていくことができるようになります。これが目に見える子どもの成長の姿であることはいうまでもありません。

 ここで注意を要するのは、この「教育の働き」が強くなりすぎたり、時宜を見定めずに大人の都合で振り向けられたりすると、子どもの成長を促すどころか、それを邪魔することになりかねない危うさをこの「教育の働き」が抱えているということです。

 今回は、「育てる」営みが「養護の働き」と「教育の働き」の二面からなることを簡単にスケッチしてみました。次回は、今回の話をもう少し掘り下げてみます。

第7回は3月上旬に更新予定です。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

「育てる」とはどういう営みでしょうか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「養護の働き」とは

 人間の赤ちゃんは、一人では生きていけない未熟な存在として生まれてきます。まわりにいる大人(多くは親)がそのいたいけな存在を慈しみ守り育てなければ、その存在は生きていくことができません。それは、親が育児放棄をした場合や虐待をした場合の報道に明らかです。子どもの命を守り育てることは、まわりの大人の責務だといえます。それは当たり前のことですが、その当たり前が自然に行われるためには、まず、子どもを前にした時に、大人には優しい気持ちになって温かく包むような姿勢で接することが求められます。

 子どもを可愛いと思い、慈しむ気持ちになり、子どもの求めに応えていこうとする大人の優しい気持ち、つまり、「あなたは大事な子」「あなたのことを守っていく」「あなたのことが可愛い」と思う大人の気持ちや気構え、これが「養護の働き」です。初回は、この「養護の働き」を念頭に置いて、子育てには「愛情」が何よりも必要なものであることを指摘したのでした。

 赤ちゃんはまったく何もできないという意味で未熟だといっているのではありません。最近の研究が示すように、赤ちゃんは泣いて訴えて自分の思いを表出することができ、それによって大人の対応(授乳やオムツ替え)を引きだす力があります。3か月を過ぎる頃からの満面の笑顔は、お母さんから「可愛い!」「目に入れても痛くない!」という気持ちを引きだす力をもっています。しかし、いつもそうかといえばそうではありません。理由のわからない泣き、むずかり、不機嫌、癇癪など、親を困らせることもたくさんします。だからといって、「もう知らない!」「勝手にしなさい!」では子どもは育つことができません。

 つまり、望ましい状態の時だけでなく、望ましくない状態の時にも、大人は子どものすべてを身に引き受けて、子どもの状態をよい方向にもっていこうと努めることが求められます。その時に欠かせないのが「養護の働き」なのです。

 大人の側の気分次第でかかわればよいのではなく、どんな事情の下でも、子どもの存在を温かく包み、子どもの命を守り、子どもの思いを受けとめ、その子の幸せのために心を砕いていこうとする姿勢が「養護の働き」であり、これは、子どもが思春期を過ぎて一人前に近づくまで必要なものだと思います。

 >③「育てる」とはどういう営みでしょうか?

「育てる」とはどういう営みでしょうか?

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

「育てる」とはどういう営みでしょうか?

 「子育て」とは、いうまでもなく子どもを育てることですが、では、「育てる」とはどういう営みなのでしょうか。

 おっぱいを飲ませる、オムツを替える、外気浴をさせるなど、乳児の頃のいわゆる「育児行為」がそれであることはもちろんです。しかし乳児期を過ぎて、しつけが入ってきてから後の「育てる」とは何でしょうか。身辺自立にかかわる一連のしつけに始まって、大人の願いを伝え、あれをさせて、これをさせてと、いわゆる「できること」を増やしてあげることが「育てる」ことだと考えられることが多いことは、この連載の初回でお話ししました。そういう考え方が乳幼児期の「教育」の考えに連なるものであることはいうまでもありませんが、子どもにとって必要な大人の「育てる」営みは、次々に何かをさせていくことだけでしょうか。

 赤ちゃんとして生まれた子どもが一人前の大人になるまでの過程で、まわりの大人がしてあげなければならない一連の働きかけが「育てる」営みです。その「育てる」営みに欠かせないものは何でしょうか?

 初回では、そこに「愛情」が含まれることを指摘しました。そのことを踏まえて、大昔から連綿と続いてきた子どもを「育てる」営みを振り返ってみると(今の幼児教育のために、学校教育のためにという議論をいったん棚上げにして)、子どもを「育てる」営みには、時代を超えて、大きく「養護の働き」と「教育の働き」の二つがあったことを指摘できるように思います。そこで、この二つの働きについて簡単に振り返ってみましょう。

>②「育てる」とはどういう営みでしょうか?

新しい発達の見方から見えてくるもの その(2)

鯨岡 峻(京都大学名誉教授)

わが子は将来〈育てる者〉になるのです そのことを考えていますか?

 さて、お母さんがお母さんらしくなるのには、子どもを育てる時間と経験が必要だ、そこにお母さんの発達があると述べてきました。今、お母さんが大変な思いをしているように、わが子もこの先30年もすれば、お母さんと同じような思いをすることになるのです。今の子育てをしながらお母さんが味わうプラス、マイナスの心の動きは、実は子どもが保育園で友だちや先生とのかかわりの中で味わうプラス、マイナスの心の動きとよく似ています。子どももまた、自分の思い通りにしたい気持ちと、思い通りにゆかない現実とに挟まれて悩みながら、しかし、何とか前を向いて生きていこうとしているのです。

 お母さんが日々大変と思って暮らしているように、子どもも本当は日々大変と思って生きているのです。そのことを考えると、お母さんには、単にできることが増えることが喜ばしい、早くいろいろなことをさせて発達を前に推し進めて、という考え方から早く脱却して、わが子がどんなプラス、マイナスの心を動かして成長しているかに目を向けていただきたいと思います。

 実際、身体が大きくなり、知的能力がしっかり身についたとしても、対人関係を潜り抜けていくための心の育ちがなければ、一人前になれませんし、ましてや30年後に親になった時に、親らしく子育てに臨む大人にはなれません。今は学力、学力と目に見える力をつけることに国を挙げて奔走しているように見えますが、しかし、わが国の教育は、能力の高い人間はつくりだせても、一人前の心をもった人間をつくることには失敗しています。失敗する理由は、主には学校教育にありますが、家庭の子育てや保育のあり方に、子どもの心を育てるという視点が十分ではないことにも理由があると私は考えています。

 従来の発達の見方は子どものプラス、マイナスの心の育ちを視野に含むものではありませんでした。しかし、「子どもは育てられて育つ」という観点に立つと、心の育ちが大事なものとして浮上してくるはずです。お母さんは子育てをする中で、「今になって親のありがたみがわかる」という思いになっていると思いますが、子どももいずれ親になった時に、同じことをいうようになるのでしょう。

*この連載では、「保護者」という言葉を「お母さん」という言葉に置きかえてすすめていきます。

第6回は2月上旬に更新予定です。